2017年の秋に親類の法事で帰省した際、あまりにも晴れていたので弘前城菊ともみじまつりに行きました。お祭りのメイン会場は弘前城植物園でしたが、個人的なメイン会場は弘前城天守台の石垣だと思いました。
弘前城天守台の石垣が解体されるまでは、誰も石垣の下を見たことがなかったので驚きの連続でした。石垣解体工事では元の場所を特定しておくため、解体する3000個の石すべてに番号を付けらています。右写真の下側には、既に番号が振られています。
これは紛れもなく江戸時代以前の地層で、弘前がまだ鷹が丘と呼ばれていた頃の二ツ石です。その二ツ石を土台として弘前城本丸の土台が作られました。
写真に見えている盛土は、黒色土と黒褐色粘土の厚さ20~30㎝からなる互層で、版築状に堆積しており、盛土中からは17世紀後半までの遺物しか出土していない状況です。このことから現段階では、この範囲を元禄年間に積み足された石垣と想定しています。
弘前城天守台の石垣が見えている部分は、明治時代の修復事業で継ぎ足されたものでした。17世紀半ばの絵図には、本丸東側中央部に石垣のない弘前城が描かれています。慶長の築城時、本丸東側中央の約70mには石垣が築かれず、土羽の状態でした。その約80年後の元禄年間に、4代藩主・信政が布積・打込接の石垣を築き足しています。
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