弘前城天守台の石垣はしばらく石垣の傍に置かれていましたが、あるところに撤去されていました。
これらの写真を撮った場所は、催し物が行われている弘前城四の丸です。2018年の11月におじいちゃんの50回忌で行った時に撮りました。最初撮った時は太陽が出ていなかったのですが、しばらくすると太陽が顔を出して写真を撮りやすくなりました。
その後、弘前城雪灯籠祭りや弘前さくらまつりが行われたので、また別の場所に置かれていると思います。これら石垣の一つ一つに番号が振られているのが面白いですね。
巨大なクレーンで石垣を大型車に乗せてここまで移動させているようです。これらの石垣が最初に設置されたのは、明治時代中期に行われた石垣の大補修です。
元禄期に築城された際に石の供給場所となった弘前市如来瀬には、石切丁場跡があります。
本丸東側の石垣は、築城時の野面積みから元禄期の切石積み、明治から大正にかけての近代の積みまで、各時代相に伴って様々な技術が混在しています。そのうち天守台下の、明治期に崩落したものを積みなおした大正期の石積み箇所と、その北側の元禄期に完成した石積み部分において、南北100mほどに大きな変化が確認されています。
東面では、内堀側に約1m石垣がせり出し、天守は北東隅で30cmほど沈下していました。天守の歪みは、天守台石垣の変位によるもので、建物自体に大きな影響のなかったことが判明しましたが、石垣自体の変位が進行した場合、天守台石垣を巻き込んだ崩落が起こる危険がありました。
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