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宮内庁大膳課

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天皇の料理番を担当する、「宮内庁大膳課」とは!?(2015.4.25)

宮中晩餐会で出されるグラス・フジヤマなるアイスデザート天皇家の食生活は、医食同源として食で健康を目指す“食養学”に基づいている。両陛下の食事を実際に作るのは、宮内庁大膳課の職員。大膳課は5つの係に分かれ、第1係は和食、第2係は洋食、第3係は和菓子、第4係はパンと洋菓子、第5係が東宮御所担当となっており約50人が勤務している。

メニューは主厨長と副厨長が2週間分を考える。朝は毎日、トーストやオートミールなど軽めの洋食で、昼食と夕食は和食と洋食が交互に出される。

昭和天皇時代に約5年にわたって宮内庁大膳課に勤め、現在は東京・江古田で『ビストロ サンジャック』を開いている工藤極氏はこう語る。

「大膳課の職員は陛下のことを“聖上”とお呼びしていました。私が大膳課に入って、まず言われたのが“聖上には糖分・脂分は控えるように”ということでした。素材が本来持っている淡い味を引き出すような調理を心がけました。それととにかく食材を使い切れということを口酸っぱく言われました」

侍医から“1日1800kcal”という指示があり、市販の化学調味料は一切使わず、塩分も1日10g以内だったという。そして調理の基本とされたのが「一物全体食」という食材を余すことなく使い切るという考えだったという。

「それが栄養のバランスが偏らないようにする大膳課に伝わる伝統なんです。例えば、野菜の皮は、後でスープの具にしたり、葉物なら後日漬け物にします。鶏肉も、胸肉、もも肉は主菜に使い、手羽は後日、スープの具に。骨はスープのだしを取るのに使い、ぼんじりは軽く揚げてつけ合わせにするといったようにです」(前出・工藤氏)

材料は厳選されたものを使うのだが、新鮮な肉、野菜、乳製品といった食材のほとんどが栃木県高根沢町にある御料牧場で生産されている。広さは約252ヘクタール(東京ドーム約54個分)と広大な敷地ながら、“天皇家の台所”である場所だけに周囲の至るところには“関係者以外立ち入り禁止”の看板が設置される徹底ぶり。それだけ安全・安心な食材を細心の注意を払って天皇家の食卓に届けている。

園遊会で出される料理
園遊会で出される料理を作る宮内庁大膳課の職員


車馬課主馬班

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伝統引き継ぎ鍛錬の日々 宮内庁車馬課主馬班

宮内庁車馬課主馬班東京都心の皇居の一角で、30頭以上の馬が飼育されている。世話をするのは、宮内庁の車馬課主馬班。馬を専門に扱うユニークな公務員集団として新任大使の送迎の馬車列を運行し、馬術の伝統を引き継いでいる。

宮内庁で実演される古式馬術は、宮内庁車馬課の主馬(しゅめ)班が保存に努めている「打毬(だきゅう)」と「母衣引(ほろひき)」の2競技で、打毬は両陛下も皇太子ご夫妻時代にお子さま方らと親しんだ。「伝統文化の維持保存も皇室の役割」とする両陛下の意向を踏まえ、この機会に披露されることになった。天皇陛下が即位して以降の三権の長や大臣、衆参両院の副議長を招く。

「打毬」は伝統的な衣装を身につけた騎手が4騎ずつ紅白のチームに分かれ、まりを拾って的に投げ込むもので、「母衣引」は、騎手が背負った筒状の布をたなびかせながら馬を走らせる競技。終了後は宮殿で茶会が開かれるという。

22歳の誕生日を前に古式馬術の打毬(だきゅう)をする浩宮時代の皇太子さま。右は皇后さま=1982年2月、皇居、宮内庁提供
22歳の誕生日を前に古式馬術の打毬(だきゅう)をする浩宮時代の皇太子さま。右は皇后さま
1982年2月、皇居、宮内庁提供

宮内庁内郵便局

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宮内庁

宮内庁内郵便局(取扱局番号:01203)

宮内庁内郵便局消印〒100-0001
東京都千代田区千代田1-1
駐車場なし

皇居敷地内に所在する郵便局店舗のため、通常は、宮内庁職員、または、皇宮警察本部職員など限られた者しか利用できません。昭和基地内郵便局や船内郵便局を除けば、日本国内唯一の一般の利用ができない郵便局です。関係者以外から窓口を利用したい要望が当該店舗にありますが、警備上の理由などにより、宮内庁からの要請で断られています。

宮内庁内郵便局長…主務者印かつて郵貯ラリーが行われていた時、1日ラリーの優勝者が特典として入構し、同局で貯金できたこともありました。昭和末期には坂下門で局に内線電話をしてもらい、局員が門まで迎えに来てもらって入れた時期もありました。知っていれば当然訪問したのですが、既に不可能な状態です(>_<)

皇居東御苑

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東京駅から皇居東御苑へ

皇居東御苑看板皇居東御苑は、東京都千代田区の皇居の東側に付属している広さ約21ヘクタールの庭園。宮内庁の管轄。皇宮警察がある。

当地はかつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡に位置し、少し離れた場所の西の丸を含めた、この範囲のことを江戸城といった。

明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設があった。戦後の1963年に特別史跡に指定され、1968年10月1日から一般に公開されるようになった。

苑内は緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構など歴史的な史跡も見ることができ、海外からの旅行者も多く訪れる。2014年7月27日、開園以来の来場者数が2500万人を達成。

皇居東御苑
皇居東御苑

三の丸尚蔵館

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「三の丸尚蔵館」 入館者500万人

三の丸尚蔵館三の丸尚蔵館は、東京都千代田区千代田の皇居東御苑内にある博物館施設。宮内庁が所管する。昭和天皇の崩御後の1989年(平成元年)6月に皇室から寄贈されて国庫に帰属した美術品を保存、研究、公開するための施設として1993年(平成5年)11月3日に開館した。

1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御したことに伴い、残された美術品類を国有財産と皇室の私有財産に区分けする必要が生じた。そして、「三種の神器」を始め、歴代天皇の肖像・宸筆、皇室の儀式に用いる屏風や刀剣類など、皇室にゆかりの深い品は皇室経済法第7条により、引き続き「御物」として皇室の私有財産とみなされたが、それ以外の絵画、書、工芸品などの美術品類約3,180件(約6,000点)は1989年(平成元年)6月、皇室より国に寄贈された。これらの国有財産となった美術品類を適切な環境で保存研究し、一般に公開する目的をもって1993年(平成5年)に、皇居東御苑内に「三の丸尚蔵館」が開館した。当初は保存研究を主目的とした「収蔵庫」として建設を計画し、収蔵品の公開については博物館・美術館への貸出等を行って展示することを検討していたが、皇室の意向により当館内に展示室を設けることになった。

その後、秩父宮妃の薨去後の1996年(平成8年)に秩父宮家が所有していた品々が、2001年(平成13年)に香淳皇后の遺品が、高松宮妃薨去後の2005年(平成17年)に、高松宮家が所有していた品々が、さらに2014年(平成26年)3月に三笠宮家所蔵品が、各々寄贈された。2014年(平成26年)時点で、約9,800点の美術品類を収蔵している。

皇居「三の丸尚蔵館」 展示収蔵スペース拡充へ

桃華楽堂

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【皇居散策】桃華楽堂

桃華楽堂桃華楽堂は、昭和41年2月に完成し収容人員は200名の音楽堂で、音楽好きの香淳皇后(昭和天皇皇后)さまの還暦記念として建設されました。

鉄仙の花弁を形どつた屋根と八面体の珍らしい建物で、ホール外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅と八面の正面から左へ順に陶片であしらっています。

「桃華」の由来は、香淳皇后さまの御誕生日が三月なので桃の節句にちなんで桃とし、華の字形は十が六個と一で構成されていることから還暦(数え年61歳)を意味するということで命名されました。

桃華楽堂看板
桃華楽堂看板

江戸城天守跡

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江戸城 天守閣跡 千代田の史跡

江戸城天守跡本丸の北端に位置している。最初の天守は1607年に完成し、このときの天守台は少し南にあった。3代将軍家光が大改修を行い、最終的な完成をみたのは1638年。このとき、現在の天守台ができた。天守は外観5層、内部6階建てで、天守台を含めた高さが58mであり、天気が良ければ房総半島からでも見ることができた。しかし、明暦の大火で焼失してしまう。再建策もあったが、家光の弟である保科正之(会津松平家藩主)の反対により再建は延期され、それ以後天守は建設されなかった。

江戸城天守台
江戸城天守台

江戸城天守

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[深掘り!] “東京”のシンボルへ 江戸城天守を再建したい

再建天守計画図江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。

徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。明暦3年(1657年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった。

以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。

1657年に寛永度天守が焼失した後、ただちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が前田綱紀によって築かれた(高さは6間に縮小)。計画図も作成されたが、保科正之の「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見と江戸市街の復興を優先する方針により中止された。後に新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。

これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになる。

江戸の面影をたどる・皇居散策. 2011年11月

富士見櫓

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天皇誕生日 皇居 富士見櫓

富士見櫓 天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。現存の富士見櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。どこから見ても同じ形にみえるため八方正面の櫓とも呼ばれ、特に石垣上にせり出している石落し仕掛けのある南面の屋根が描く曲線はとても優美です。

石垣は主に伊豆の自然石でこのあたりの石垣の積み方は初期の打ち込みはぎで自然石をそのまま積んでいるため、乱雑ですき間が多く崩れそうですが、積み方としては水はけもよく最も堅牢といわれていて、関東大震災でもまったく崩れなかったそうです。石垣の高さは約14.5m、櫓の高さは約15.5mになります。

The Fujimiyagura turret | 富士見櫓

吹上御苑

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皇居・吹上御苑で自然観察会 70歳以上を対象に(15/04/25)

吹上御苑吹上御苑は日本の皇居(東京都千代田区)・吹上地区にある御苑。吹上御所とも呼ばれる。敷地の多くは森林となっており、その中に御所等の建物が点在する。主な建物として、昭和天皇、香淳皇后の御所であった「吹上大宮御所」、現在の天皇・皇后の住居である「御所」、「宮中三殿」などがある。

江戸城築城後には番衆・代官衆や清洲藩の松平忠吉の屋敷地があり、その後は徳川御三家の大名屋敷が建築された。1657年(明暦3年)1月明暦の大火で全焼し、当時財政難であった幕府はほぼ壊滅状態であった江戸復旧に際し都市の再建を優先。このあたりは江戸城への類焼を防ぐための火除け地として日本庭園が整備される運びとなった。

明治維新では一時荒廃したが、江戸城に天皇が居住するようになると、庭園が再建され、さらにゴルフ場も建設された。吹上御苑の転機となるのは1937年で、昭和天皇がゴルフ場の使用を止め、自然のまま残すように希望したため、以後森林が形成された。隅々まで人の手が入った旧西の丸地区とは対照的に、手つかずとなった吹上御苑は、都心においては驚異的な、あたかも人工の原生林とも言える植生を形成、さながらビオトープの様になっている。

都心で"虫取り"子どもたち大喜び 皇居・吹上御苑(14/05/05)

皇居の生物相

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吹上御苑航空写真
吹上御苑航空写真

吹上御苑皇居は現在は大都市である東京都の中心部にあるが、多足類、クモ類などの状況から考えると、16世紀末の徳川家康の入城以前は海に面した照葉樹林帯であったと考えられる。江戸幕府の成立後、江戸城の建設が本格化し、現在の吹上御苑も御三家の邸宅など宅地化され、その後も庭園、馬場、そして昭和になってからはゴルフ場と様々な利用のされ方をすることになった。

そのような中、武蔵野の自然を蘇らせる希望を持った昭和天皇の意向で、昭和12年(1937年)以降吹上御苑の公園的な管理は中止され、更には昭和23年(1948年)以降、武蔵野に自生する植物の移植が進められていった。その結果、最低限の管理が行われていることと成立の経緯から原生林とは言えないものの、現在の吹上御苑は豊かな森林に覆われるようになり、大都市の中心部としては異例の豊かな自然が見られるようになった。また吹上御苑内には田畑、桑畑などがあって里山的な環境もあり、小さいながらも流水域と湿地帯も見られるなど、極めて多様な環境に恵まれており、大都市の中心部にあるために都市に適応した種も見られる点を含めて、極めて多様な生物相に恵まれることとなった。また皇居は関東平野本来の自然環境を現在見ることが出来る場所であると考えることも出来る。

吹上御苑の湿度は、近くの気象庁の測定値に比べ、およそ10~20%程高く、衛星の観測データによれば、吹上御苑を含む皇居の森で作られた高湿度の空気が大気を冷やし、銀座、日本橋辺りまで流れ込み、ヒートアイランド現象の抑制にも役立っていることが判明している。

吹上御苑の小さな滝
吹上御苑の小さな滝

皇居外苑

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江戸城 皇居外苑

皇居外苑案内図皇居外苑は厳密には1969年(昭和44年)に開園した北の丸地区(北の丸公園)と皇居前広場の皇居外苑地区、それに皇居の周り濠に沿った皇居外周地区を総括的に指すが、通常は皇居前広場を中心とした地区を指す。都市計画法第11条(都市施設)に基づく名称は、北の丸公園、日比谷公園と合わせて「東京都市計画公園第5・8・23号中央公園」である。広大な広場のほかに、桜田門と二重橋といった日本を代表する歴史的にも貴重な建築物を見ることが出来る。入苑は無料。広く開放されており開苑・閉苑の概念自体ない。

元々は皇室苑地であったところを戦後、国民公園として開放することが閣議決定され、1949年(昭和24年)に開園。広大な芝生と黒松の木を中心とした皇居前広場に、巨大な噴水を上げている和田倉噴水公園など都心で安らぎの空間となっている。1971年(昭和46年)に当時の厚生省から環境省に管轄が変わった。東京都内の観光ツアーの訪問地の代表格でもあり、海外からのも含め観光客の姿も多い。

皇居外苑
皇居外苑

和田倉噴水公園

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和田倉噴水公園

和田倉噴水公園和田倉噴水公園は、 国民公園皇居外苑地区の一角和田倉地区にある公園です。 昭和36年(1961)天皇陛下(当時皇太子殿下明仁親王)のご成婚を記念して造られ、面積は15,000㎡あります。 その後皇太子殿下のご成婚記念で平成7年(1995)6月噴水公園が再整備され、 新しく水の流れ落ちる施設やモニュメントが造られました。 噴水の水は、お濠の水を濾過して循環使用しているとのことです。 園内には、レストランがあります。
 
The Dance of Water - Timelapse - 和田倉噴水公園 (Tokyo, Japan)

桜田門

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【皇居外苑】桜田門~二重橋~東京駅を歩く

桜田門 (渡櫓門)桜田門は、江戸城(現在の皇居)の内堀に造られた門の一つ。桜田堀と凱旋堀の間にある。昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定された。特別史跡「江戸城跡」の一画を占める。

当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていた。寛永13年(1636年)にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築、桜田門とよぶようになる。外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造になっており、間に桝形がある。大正12年(1923年)の関東大震災で一部が破損、鋼鉄土蔵造りに改修される。

安政7年(1860年)にこの門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。井伊邸は現在憲政記念館の建っている辺りにあり、桜田門から西に500mほどの所にあった。昭和7年(1932年)には昭和天皇の暗殺未遂事件(桜田門事件)が起きた。

桜田門 (高麗門)
桜田門 (高麗門)

桜田門外の変

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桜田門外の変

桜田門外の変 地図桜田門外の変とは1860年、江戸城桜田門の近くで元水戸藩士らに井伊直弼が暗殺されてしまう事件です。朝廷の許可も得ぬまま、不平等条約とされた日米修好通商条約を結び、安政の大獄にて反対派の人々を次々に処罰していった井伊直弼。彼のあまりのやり方に不満を持つ人は多くいました。

1860年3月3日の朝。春だというのに雪に見舞われていた江戸。井伊直弼らは彦根藩邸を出発し、江戸城へ向かっていました。一行役60名を引き連れていた井伊直弼。彼らが桜田門外に差しかかった時、銃声を耳にします。驚いた彼らが辺りを見回すと、さきほどの銃声の音を合図とし総勢16名の脱藩した水戸浪士らが刀を振りかざし襲い掛かってきました。護衛の武士達も刀を抜き応戦しますが、雪の為に身につけていた雨合羽や刀を覆った柄袋に動きを封じられ上手く戦うことができない。そうしている内に井伊直弼は弾丸を腰にうけてしまい、駕籠にのったままもがいている所を首をはねられてしまいます。

桜田門外の変
桜田門外の変

坂下門

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皇居 乾通り秋の一般公開2015 坂下門から入る 2015.12.8

坂下門坂下門橋は、内濠の蛤濠と二重橋濠の間に架かり、皇居外苑から皇居(旧江戸城西丸)に通じる土橋です。門内の近くに宮内庁があります。坂下門は江戸城西丸造営直後に造られたと伝えられています。西丸大奥に近く、西丸の通用門として利用されていましたが、今は宮内庁の出入口として利用されています。文久2年(1862)1月、老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士に襲われた「坂下門外の変」は有名です。

皇居・坂下門

坂下門外の変

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坂下門
坂下門

安藤信正桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した安藤信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らは反発、信正らに対し憤激した。

文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、信正老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三[1]、越後の医師・河本杜太郎の6人が行列を襲撃した。水戸藩浪士・川辺左次衛門も計画に参加していたが、遅刻したため襲撃に参加出来なかった(なお、黒沢と高畑は第一次東禅寺事件の参加者である)。

最初に直訴を装って河本杜太郎が行列の前に飛び出し、駕篭を銃撃した。弾丸は駕篭を逸れて小姓の足に命中、この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込んだ。警護の士が一時混乱状態に陥った隙を突いて、平山兵介が駕籠に刀を突き刺し、信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。警護側でも十数人の負傷者を出したが、死者はいなかった。

信正老中暗殺には失敗したものの、桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した。この事件を契機として、信正は4月に老中を罷免され、8月には隠居・蟄居を命じられ、磐城平藩は2万石を減封された。

お召し列車

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E655 お召し列車 前面 旗開き(出発前の式典)

お召し列車として使用されるE655系「なごみ」お召し列車とは天皇、皇后、皇太后が使うために運行される列車。天皇・皇后・皇太后以外の皇族のために運行する列車は、御乗用列車と呼ぶ。

お召し列車・御乗用列車のための専用の車両(皇室用客車)があるが、普段は特急など一般の列車に使われている車両を天皇が乗るための臨時列車として運転する場合もあり、後者の場合も天皇・皇后・皇太后・皇族が使うことになるために運行するため、お召し列車・御乗用列車にあたる。

しかし定期列車を使う場合、たとえば新幹線「のぞみxx号」の○号車を借り切る場合には、天皇・皇后・皇太后が使うことになったとしても天皇・皇后・皇太后のために運転する列車ではないため、お召し列車には含まれない。

【12/10/06撮影】正真正銘の中央線での「お召し列車」運転!!

お召し列車到着

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お召し列車東京駅到着!天皇皇后両陛下到着シーンなど

お召し列車には列車番号はなく、ダイヤ上でも「お召し」である。ただし現在のJR東日本では列車の運行管理をコンピュータで行うので、お召し列車にも列車番号を与えている。下りは9001、上りは9002という列車番号が使われることが多いが、必ずしもそうではない。新幹線の場合は、一般の団体臨時列車と同じ列車番号が付けられることが多い。

お召し列車の運行には「三原則」がある。

1.他の列車と並んで走ってはならない。
2.追い抜かれてはならない。
3.立体交差では、上の線路をほかの列車が走ってはならない。

このため臨時に他の列車の時間調整を行なうほか、事故などの不測の事態に備えてダイヤ作成担当者がお召し列車に添乗する。

お召し列車担当の運転士は、運転区間を管轄する車両基地内で技術・勤務態度・人間性を踏まえて選ばれる。衝撃のない発車や停止、数秒の狂いもない運転、数センチのズレも許されない停止位置など、通常の列車に比べて極めて細かい運行が求められるため、運転技術がとくに優れている運転士が選ばれている。移動日や時刻は官報によって公に示されている。ただし通常の列車の場合もあるので、必ずしもお召し列車による運行とは限らない。あくまで皇族の行事参加および移動を掲載している。

お召し列車は原則として夜には運転されない。長い時間をかけた戦前には途中の御用邸などで泊まりながら移動していた。例外は、1947年(昭和22年)12月11日に姫新線林野15時42分発、東京翌6時57分着で運転された、お召し列車唯一の夜行列車である。また1946年(昭和21年)6月6日 - 7日に銚子市を訪れた時には、戦災で天皇が泊まるような邸宅や旅館などが銚子に残っていなかったことから、銚子駅の先に在った貨物駅である新生駅に御料車を引き込んで、その中で泊ったことがある。2012年現在まで、天皇が御料車内で泊ったことが認められるのはこの2件のみである。

E655系お召し列車 初狩駅通過!

菊花紋章

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菊花紋の装飾がある靖国神社門扉
菊花紋の装飾がある靖国神社門扉

十六八重表菊菊紋のうち、八重菊を図案化した菊紋である十六八重表菊は、日本の天皇および皇室を表す紋章である。俗に菊の御紋とも呼ばれる。親王などの皇族はこの紋の使用が1869年(明治2年)の太政官布告をもって制限され、1926年(大正15年)の皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)13条発布を経て「十四裏菊」や「十六裏菊」に独自の図案を加えたもの(有栖川宮家・伏見宮家など)や「十六八重表菊」を小さな図案によって用いたもの(秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家など)を各宮家の紋としている。

現在でも日本の在外公館の玄関には、日本の国章の代わりとして菊花紋章の浮き彫りがある。また、日本国発行の旅券の表紙にも「十六一重表菊」をデザイン化したものが使われている。国会議員の議員記章には「十一菊」の図案が使用されている。自民党の党章も、「陰十四菊」の中央に“自民”の文字を入れたものである。そのほか、菊花紋は日本の勲章の意匠にも取り入れられるなど、菊は桜と並び、国花に準じた扱いを受ける。日本の国章に準じた扱いを受け、法的には国旗に準じた扱いを受けるため、それに類似した商標等は登録できない(商標法第4条第1項第1号)。国際的にも、十六八重表菊は、工業所有権の保護に関するパリ条約第6条の3に基づいて、1967年に同条約の同盟国に通知されており、これらの国では商標登録をすることができない。

菊花紋章がある旅券への使用例
菊花紋章がある旅券への使用例

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