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弘前桜まつり 染井吉野
曳家前の天守閣です。天守閣の下に工事用の囲いがありますが、そこから上の写真では奥に曳家します。今年の桜まつりまでは現在の位置で見られますが、祭り終了後から曳家工事に取り掛かります。
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弘前桜まつり 鷹丘橋
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弘前桜まつり 外濠
外濠周辺は、2014年4月26日夜に撮影しました。
外濠は弘前城の外周、三の丸と四の丸を囲む濠です。西の郭側から入園する以外は、弘前公園内に入るためには必ず、この外濠を超えてゆかねばなりません。
弘前城の入り口としては市民会館口・追手門口・東門口・中央高校口・北門口があります。外濠には沿道や土塁の上に多くの桜の木が植えられており、追手門や東門、北門などの古式ゆかしい建物が絢爛たる桜の海に浮かぶ姿は、まさに圧巻と言えます。
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弘前桜まつり 一陽橋
一陽橋周辺は、2014年4月27日早朝に撮影しました。
一陽橋は外濠を隔て、市街地である紺屋町と四の丸に架かります。1943年(昭和18年)、市民の通行の利便性のために架橋されました。橋の名称は、橋を架けた頃に「一洋」という酒造店が近くにあったため、その一字をもじり「一陽」としたという説があります。
一陽橋は、昔ながらの趣を伝える素朴な木製の橋です。 架け替えされたのは1996年(平成8年)3月。橋の長さは13.8mで、橋の幅は2.5mです。
一陽橋の周辺である紺屋町には駐車場が多く、車を利用される方はこちらからの入城が便利です。四の丸には橋を渡ってすぐに演芸場があり、そのまま東に歩を進むと護国神社が見えてきます。
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弘前桜まつり 護国神社
護国神社周辺は、2014年4月27日早朝に撮影しました。
一陽橋から演芸場を通り過ぎたところにある護国神社は、12代藩主承昭によって箱舘戦争の戦没者慰霊のため1870年(明治3年)に創建されました。
1910年(明治43年)3月に弘前招魂社として現在地に移築され、1936年(昭和11年)8月に青森招魂社となり、1939年(昭和14年)4月に一府県一社を原則とした内務大臣指定護国神社となりました。
護国神社には、明治維新後の数々の戦争によって、日本の平和と自然、愛する家族を護るために亡くなられた、青森県出身の2万9171柱の御霊(英霊)が神として祀られています。
護国神社の周りには、幕末に活躍した藩士西舘 孤清の石碑、戊辰戦争の戦没者慰霊碑など、6つの碑が建立されています。
さくらまつりの期間には、護国神社付近に出店が多く出るため、この神社へ足を踏み入れ桜を眺める観光客も数多く見られます。
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弘前桜まつり 春陽橋
春陽橋周辺は、2014年4月27日早朝に撮影しました。
春陽橋は、西濠を隔て、市街地である五十石町と西の郭に架かります。1932年(昭和7年)、市民の通行の利便性のために架橋され、城内では最長の橋となりました。橋の架け替えは2005年(平成17年)12月に行われています。橋の長さは30mで、橋の幅は3mあります。
春陽橋がまたがる西濠は、ワシントンDCのポトマック湖畔に似ていると評されます。西濠に沿った桜並木は「桜のトンネル」と形容され、桜が咲く時期は観光客で賑わいます。
波祢橋は、2014年4月27日早朝に撮影しました。
二階堰を隔て、四の丸と西の郭に架かります。1671年(寛文11年)、4代藩主信政が架橋したとされます。橋の長さは5.7mで、橋の幅は5.2mです。
この橋は、その名の通り、橋を跳ね上げられる可動式だったという説があります。殿様がお忍びで市中へ出向いたり、隠密が殿様の密命を受けて本丸へ出入りしたりする際に用いられたと思われます。
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弘前桜まつり 西濠
西濠周辺は、2014年4月27日早朝に撮影しました。
弘前公園の西の外周を囲むこの西濠は、もともと築城時には岩木川の支流を引きこんだものでしたが、現在は岩木川と独立しています。
両岸の沿道にはたくさんの桜が植樹されていて、いわゆる「桜のトンネル」と呼ばれる通路が伸びています。さくらまつり期間中には有料のボートが貸し出されており、このボートから眺める周囲の景色はまた格別です。
上下の写真は、春陽橋の中央から南向きに撮りました。桜祭りの期間中、昼夜問わず両岸に見える桜と堀を撮影するため観光客が集まります。これは朝7時半に撮りましたが、早朝にも関わらず数多くのヒトがいます。春陽橋は藩政時代に無かったものなので、このように堀をまたぐ橋は弘前市の観光名所でもあります。
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弘前桜まつり 西濠の桜
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弘前桜まつり 西濠ボート
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桜のトンネル
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弘前桜まつり 蓮池
弘前城 蓮池は、2014年4月27日早朝に撮影しました。蓮池濠は、本丸の西の防御のために岩木川の河岸段丘の崖下に備えられた濠で、崖上の本丸との標高差は17mに及びます。蓮池の北側の岸には東屋がしつらえられており、水面に浮かぶ蓮に目をやりつつ休息を取ることができます。
蓮池には、その名の通り一面に蓮の葉が浮かんでいます。開花時期は7月~8月で、その頃は鮮やかな色をした蓮の花が池全体に咲き乱れます。昔から蓮は、お釈迦さまが住む西方極楽浄土に咲くとされ、神秘的な趣きを秘めています。以下の画像は、波祢橋近くにある東屋から弘前城 蓮池を撮った写真です。
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弘前城下は惣構
弘前の城下一帯を城郭と見立て、濠や土塁で囲い込んだ防衛施設を惣構(ソウガマエ)と言います。弘前城の惣構は、東側から南側には土淵川、北側には土淵川の支流である二階堰こと堀川、岩木川に流れ込む田堰の両河川、西側には岩木川が城を守ります。
弘前城の惣構が持つ特色は、1610年(慶長15年)から1615年(元和元年)、2代藩主信枚によって行われた城の守りを固めるための大規模な工事にあるといえます。城の守りを固めるために領内各所に点在した寺社を、城下へ移動し、集中させ、地形を変えてしまうほどの大規模な工事が施されました。八幡宮を鬼門の方角である北東へ、誓願寺を西方へ、長勝寺を裏鬼門の方角である西南へと、藩祖為信が拠点とした大浦城周辺の多くの寺社を、弘前城周辺に集めました。
信枚の考えた都市計画の特徴は、城の周囲を寺社の配置で囲み、長勝寺構に見られるような各寺社を惣構内の防衛拠点として活用したところにあります。惣構は高岡城(後の弘前城)築城と同時期に相次いで造成され、藩政時代の都市計画を現代に伝えている貴重な遺構として国指定史跡となっています。
藩政時代の弘前市・古地図を見ると、西堀が完全に川の流れであったことが分かります。岩木川の支流を城郭の西一帯に流れるようにすると、西からの攻めにもある程度耐えられます。南からの攻めは大溜池を作り、守りを固めました。この大溜池も埋め立てられて、弘前大学医学部が所有する南塘グラウンドになりました。
ほぼ現在の形になっています。岩木川の支流は埋め立てられて、西堀となりました。NHK弘前放送局の向かいにあった時敏小学校は、移転して跡地は弘前文化センターとなっています。
私の母校でもある東奥義塾も石川地区に移転して、跡地は弘前市立観光館となりました。文化的価値の高い旧東奥義塾外人教師館は、移転せず同じ場所に残っています。
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弘前桜まつり 亀甲門
亀甲門は、2014年4月27日早朝に撮影しました。北門は、またの名前を亀甲門と呼びます。
中国の古い言い伝えによると、北方の守護神として玄武という亀の神様がいたとされており、お城の北側にある門の別名が亀甲門とされたのは、この伝説に由来していると言われています。 築城後間もなくはこの門が弘前城の正門とされていましたが、やがて追手門が正門となり、この北門は裏門の扱いとなりました。
門の周辺には、津軽藩ねぷた村をはじめ、藩政時代からの姿をほぼそのまま留める石場家住宅や武家屋敷などが軒を連ね、弘前公園を訪れた際にはこれらの見学も欠かせないスポットです。
<看板内容>
重要文化財 亀甲門/北門
弘前城には、現在五棟の城門が残されているが、この北門は、これらの中でも特に規模が大きく、また形状も異なり最古の形式を呈する城門である。
北門は、もと大光寺城(現在の南津軽郡平賀町)の城門を慶長一六年二代藩主信牧が築城にあたり弘前城追手門として移築再建したもので、昭和三十三年の保存修理工事に当たって、柱などから多数の矢傷跡が発見されている。
弘前城は、築城以来、実践の経験がないため、この北門が城郭内で唯一の実践の痕跡をとどめる貴重な城門である。また、棟の両端にある鯱も他の門のものより古い形式のものである点、矢狭間、鉄砲狭間のない点など、見るべきところが多い門である。
基本情報
場 所 弘前城四の丸
建築年代 慶長16年(1611年)二代藩主 津軽信牧の命により建築
指定年月日 昭和12年7月29日
棟 高 12.7メートル
場 所 弘前城四の丸
建築年代 慶長16年(1611年)二代藩主 津軽信牧の命により建築
指定年月日 昭和12年7月29日
棟 高 12.7メートル
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弘前桜まつり 朝の外濠
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弘前城二の丸丑寅櫓
弘前城二の丸にある丑寅櫓は、城郭に取りつく敵への攻撃や物見のために造られました。防弾・防火のために土蔵造りで、銅版葺となっています。
軒下や出格子の木部は素木のままで飾り気がないですが、独特の美しさを見せてくれます。櫓の方角は12支を示したもので、丑寅は北東になります。
二の丸と三の丸を結ぶ土橋から見た様子が、この櫓の最も美しい姿でしょう。中濠の水面と秋に染まる紅葉が、丑寅櫓を飾り立てます。 基本情報
場 所 弘前城二の丸
建築年代 慶長15年(1610)
構 造 三層三階、入母屋、銅板葺き、濠側には鉄砲狭間
場 所 弘前城二の丸
建築年代 慶長15年(1610)
構 造 三層三階、入母屋、銅板葺き、濠側には鉄砲狭間
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弘前桜まつり 東門
弘前公園に現存する5つの櫓門のうち、他の4つの門は昭和12年(1937)年に重要文化財として指定されました。しかしこの東門のみ、昭和28年(1953年)の指定となっています。
付近には弘前文化センターがあり、東門から入園する場合はこちらに駐車すると便利でしょう。追手門同様、タクシーの待ち合わせ数も多くさらに100円バスの停留所も近くにありますので、弘前駅からのアクセスも便利です。天守のある本丸に向かうには、この東門から入園するのが近道です。
昨年の東門は桜と共に撮影し損なったので、2006年2月11日の弘前城雪燈籠祭りで撮影した画像を使いました。東門と東内門の間には、さくらまつり期間中に立派なツツジが咲いています。場 所 弘前城三の丸
建築年代 慶長16年(1611年)二代藩主 津軽信牧の命により建築
指定年月日 昭和28年
建築年代 慶長16年(1611年)二代藩主 津軽信牧の命により建築
指定年月日 昭和28年
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弘前桜まつり 東内門
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弘前桜まつり 下乗橋
下乗橋は内濠を隔て、本丸と二の丸に架かる橋です。藩政時代、二の丸側には下馬札が置かれ、藩士は馬から降りるよう定められていました。下乗橋の名は、そのことに由来すると思われます。築城当初、橋の両端は土留板でしたが、1811年(文政11年)に石垣に直されました。
以前は欄干が12支をかたどったものだったといわれます。藩政時代は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋でした。そのため今に見られる立派な姿ではなく、簡素なものだったと思われます。
本丸には天守閣が鎮座します。下乗橋から望む天守閣は、白壁に朱塗の欄干がよく映え、季節を問わず観光客が訪れる名勝として知られます。 場 所 弘前城本丸
建築年代 慶長16年(1611年)二代藩主 津軽信牧の命により建築
指定年月日 昭和12年7月29日
棟 高 11.7メートル
建築年代 慶長16年(1611年)二代藩主 津軽信牧の命により建築
指定年月日 昭和12年7月29日
棟 高 11.7メートル
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弘前桜まつり 昼の天守閣
現在内堀の3/4が埋め立てられていて、石垣に接する部分だけ内堀が残っています。今年のさくらまつり終了後に残りの部分も埋め立てて重機を搬入し、本格的に弘前城天守閣を移転します。埋め立てられた部分は入場可能で、水面からしか見られなかった風景を見ることが出来ます。
弘前公園の桜の管理の特徴は、毎年欠かさず行う剪定と施肥による若返り法にあります。「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」ということわざのように、本来サクラは切ってはいけないものと考えられていました。
ところが1960年(昭和35年)、樹勢が弱っていたこの樹を園内で初めて強剪定したところ樹勢が回復しました。この樹はリンゴの栽培技術を参考に、園内全てのサクラを剪定するようになった記念すべきサクラなのです。現在サクラの剪定は、施肥とともに寿命を延ばすために欠かせない管理作業の1つとなっています。
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弘前城天守閣
築城前の弘前は、高岡(鷹ヶ丘)と呼ばれていました。今の弘前公園は高台に位置していて、かつては鷹が多数生息するうっそうとした森でした。そこで鷹狩がされていたそうです。現在でも弘前市の町名には、鷹匠町と言う町が公園のすぐ側にあります。
藩政時代の初代藩主、津軽為信の頃には弘前と改められていました。為信は領内の開発を進め、慶長八年(1603)その高岡の地に注目し、その周辺に町割を実施、新城建築を計画しました。
弘前城は二代藩主信枚が慶長十六年(1611)に完成させました。ところが築城から16年後の寛永四年(1627)落雷により炎上して焼失しました。五層の大規模な城だったそうで、1998年に運行された弘前ねぷたにも弘前城炎上 満天姫が描かれました。現在の天守閣内部は史料館として公開されています。
弘前城天守閣入館案内
※駐車場/なし ※ライトアップ有 ※開館時間/AM9:00~PM5:00
※入場料/大人310円 子供100円 団体10名以上は2割引
※毎年4月~11月の第二日曜日のみ館内無料
※見学時間/館内9:00~17:00(入園は16:30まで)/外観・内観撮影自由
※本丸・植物園以外は無料公開
※住所 〒036-8356 弘前市下白銀町1 ℡ 0172-33-8739
※有料期間/4月1日~11月23日
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