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津軽錦絵大回廊
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津軽錦絵大回廊とは
弘前城天守閣を望む二の丸にある津軽錦絵大回廊の高さは2.5mほどで、奥行きは50mあります。この高さや奥行きの制限があるので、街中で運行されるような大きなねぷた絵が貼り付けられません。実際に貼っているのは、見送り絵やねぷたの台座の下部に描かれる額絵が殆どです。
2枚ほどねぷたの鏡絵が貼ってありますが、これは前ねぷたの鏡絵です。大きな本ねぷたよりも小さい骨組みに貼られて、普段のねぷた運行では子供会に運行されているねぷたです。津軽錦絵大回廊の入り口には昨年運行されたねぷた団体名が書かれており、実際に弘前ねぷたまつりで運行されたねぷた絵が津軽錦絵大回廊に貼られています。雪燈籠まつりのライトアップは、17時~21時まで行われています。
真冬の時期に弘前城雪燈籠まつりが行われるので、なかなか帰省出来ずにいます。この時期は第一級の寒波がやってくるので、日中でも-3℃くらいにはなります。これで猛吹雪が襲ってきたら家の中で引き籠るしかなくなります。四の丸公園では露天商が立ち並び、弘前ガールスカウト協会が無料で甘酒を振舞ってくれます。また催し物が行われるステージもあり、りんご娘などのローカルタレントがイベントを行っています。
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カットサロンミヤケ
カットサロンミヤケは、青森県弘前市若葉にある床屋・理髪店です。川崎市麻生区の柿生駅付近にある理髪店で修業を積んで、実家がある弘前市に戻って開業していました。その最初の店舗であった新寺町店に1998年頃から通っていたのがきっかけで、店が弘前高等技術専門校近くまで移転した時も変わらず帰省した時には通っています。
弘前市立第四中学校では店主が3年生だった時、私が1年生でした。人間椅子のメンバーで四中の生徒会長をやっていた鈴木研一さんと店主の坪田宏さんは同じ学年です。クラスは違いましたが・・・
その縁もあり、カットサロンミヤケには私が撮影した弘前ねぷたの写真をW四切で3枚ほど飾らせてもらっています。毎年9月頃に掲示し直すので、一年ほど同じ作品が飾られています。今年は年賀状のネタにもなった弘前城天守閣と内堀が映った写真を展示することも計画しています。
市井の床屋ですが、誰でも気兼ねなく入れるので弘前市にお住いの皆様、是非お立ち寄りください。髪を切ってくれる方がいれば大助かりです。ここは耳かきをしてくれます。耳道に細かい毛が生えているのですが、これを特殊な刃で切ってくれます。今は保健所の通達で切るのが難しくなったそうですが、特殊な刃を100枚ほどストックしてあるそうなので耳道に生えている毛が気になっている方にはお勧めです。珈琲と新聞のサービスもやっています。
〒036-8255 青森県弘前市大字若葉1丁目2-3
℡ 0172-34-2439
料金 大人整髪料 3500円(税込)
営業時間 朝8時~夜7時まで
定休日 毎週月曜日・第三日曜日
床屋主人特徴 津軽弁がハンパない、リクエストすればねぷた囃子の笛を吹く、樹木ねぷたに参加(囃子方・笛)
ルックスは大澄賢也そのもの、昭和40年代の弘前市本町に詳しい、妻帯者で娘と息子がいます
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マタニパン
弘前は城下町なので、和菓子も洋菓子もお菓子屋が多いです。弘前に帰省するたびに、よく買うのがマタニのお菓子。お店の名前、正しくは「マタニパン」です。マタニは漢字で書くと「又二」。昭和6年開業の老舗のパンと洋菓子のお店です。
私がどれにしようかなと迷っている間に、地元のお客様がひっきりなしにやってきては、次々とお買い上げされていくお店です。大抵のお客は店の前に車を横付けして買われます。余裕のある方だと、向かいの青森銀行弘前支店に車を止めて買いに行かれる方が多いです。お店に入ると、左側はパンの棚。右側がケーキのケース。まずはパンを買ってお菓子の品定めをするのが定番です。
ここのパンは他とは使用する材料が若干違うせいか、一度食べてしまったら他のパンは食べられないほど。子供の頃は親に連れられてよく入ったものです。親が必ず頼むのが、食パン一斤の4つ切りです。ものすごく厚いのですが、これにバターを塗って焼くとほんのり香ばしい匂いが立ち込めます。バターに相性がとても良く、他に付けるものがイラナイほどです。
ここのクリームチーズケーキが絶品で、2個は買ってしまいます。稀にケーキの台ごと売っていて、まるごと一つ買ったこともあります。弘前市民でマタニパンを食べたことのない方は、いないのではないでしょうか?
店名 Matani (マタニ)
カテゴリー パン
住所 〒036-8191 青森県弘前市大字親方町23
TEL 0172-32-3704
営業時間 7:30~18:30
定休日 日曜日
駐車場 なし
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ペヤングCM
商品ブランドの『ペヤング』は1973年(昭和48年)7月に発売開始となった「ペヤングヌードル」から使用開始。語源は「ペア+ヤング」で、当時カップ麺は袋麺と比べ高価でファッション要素が強い食品であったことから、カップ麺を高いと感じた若いカップルには2人で1つのものを仲良く食べて欲しいという願いがある。
「ペヤングソースやきそば」は1975年(昭和50年)3月にカップ焼きそばとして発売開始。日清焼そばU.F.O.(日清食品)、マルちゃんやきそば弁当(東洋水産)と共にカップ焼きそばのロングセラーである。「まるか食品」の企業名はあまり世間では認知されていないが、この「ペヤング」ブランドは、東日本の主力販売地域内で非常に高い知名度を誇る。
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まるか食品
まるか食品株式会社は、群馬県伊勢崎市に本社を置く食品メーカー。東日本を中心に長年販売されている「ペヤングソースやきそば」の製造・販売元。「まるか食品」という社名は、創業者の丸橋嘉蔵の姓と名を1字ずつ取って丸嘉→まるか、と名付けられた。
2014年(平成26年)12月2日、大学生(当時)が「ペヤングからゴキブリ出てきた」というメッセージと、湯を入れていない乾燥麺の内部にゴキブリと見られる虫が入り込んでいる画像をTwitterに投稿した。伊勢崎保健所では「製造過程での混入の恐れを排除できない」として商品の自主回収を指導し、まるか食品は「通常の製造工程上ではこのような混入は考えられないこと」としながらも、当該製品と同日中に同じラインで製造された「ペヤング ハーフ&ハーフ激辛やきそば」と「ペヤング ハーフ&ハーフカレーやきそば」の自主回収を実施した。その後、当該商品を外部機関により分析した結果、虫はクロゴキブリと判明し、虫に付着していた油と製造工場で使用している油が一致したため、「製造過程での混入の可能性が否定できない」として、12月11日より本社工場・赤堀工場での生産を停止し、ペヤング全商品を販売休止とした。
12月12日には、同社を通じて外部機関による検査結果を報道各社が改めて報じ、混入していた虫の体内酵素「カタラーゼ」の働きが失われており、加熱されていたことが判明。虫に付着していた油が工場使用のものと同一かは、検体が小さいことから確認できていないとした。また工場内に設置された約30台の監視カメラの映像を確認した結果、何者かが意図的に混入した可能性を否定している。同社が「リコール保険」に加入していないことも分かった。
ペヤング・・・残念です。まだ当分工場の再稼働は無いでしょう。何回か食べたことがありました。店頭からペヤングソース焼きそばが消えた直後、ネットオークションで1個10000円の値が付いたのには驚きました。平成一桁台には食品会社で勤務していたので、他人ごとではないように感じます。食品はクレームが恐ろしいので、真摯な対応をしていればここまでの損害は無かったものと思います。リコール保険には加入するべきでした。
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スタミナ源たれ
上北農産加工の魅力より抜粋
一家に一本!“スタミナ源たれ”
普段何気なく使っている源たれですが、多くの人に愛されている理由を知りたいなと思っていたところ、ラッキーなことに上北農産加工(以下KNK)を取材できることになりました。
さっそく、たくさんの商品開発に携わってきたKNK企画開発部の花田さんにインタビュー!源たれの魅力、想いやこだわりを聞いてきました。
では、上北農産加工の始まりについて教えてください。
昭和26年、羊毛加工(ウールをつくる)のためにめん羊を飼い、『藤坂めん羊農業協同組合』という名で設立したのが始まりです。しかし輸入のウールと重なり、事業的にうまくいきませんでした。
それから2年後、地元で醤油を作っていた工場を買い取り醤油醸造に移転し、昭和28年『上北農産加工農業協同組合』と改称し今に至ります。
源たれができたきっかけは?
食料事情が非常に厳しい昭和30年代。羊毛加工はうまくいきませんでしたが、食料として羊は飼い続けていました。ところが、めん羊は非常に癖の強いお肉で、「羊肉をおいしく食べれるものを考えてくれないか」という要望から、たれの開発が始まりました。
肉の臭みを消すには、しょうが・にんにく・たまねぎだろう・・と、野菜や果物をたくさん使い工夫して出来たのが、今の“スタミナ源たれ”です。
組合の方に大変好評だったため、これを商品化し昭和40年から発売開始となりました。
上北農産加工農業協同組合は、青森県十和田市に本所を置く、調味料製造専門の農業協同組合。略称は「KNK」(Kamikita Nousan Kakou)。
主力商品「スタミナ源たれ」で知られている。地元十和田市を中心として、青森県内では「源たれ」で通じる。
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源たれの魅力
源たれのこだわりは?
生の野菜を、これでもか!と言うほど使っていることですね。
源たれは、どのたれと比べても使っている野菜の量が圧倒的に多いと思います。そして使われる野菜は全て人の手で処理しているんですよ。
これこそ源たれのこだわりです!
源たれを作る上で、大事にしていることってなんですか?
手を抜かないことですね。私たちの考え方を一番反映している商品なので、当り前のことかもしれませんが丁寧に作っています。
野菜を一個一個手で処理すること。作る過程でも決められた時間や温度をしっかり守り、しっかり確認する。そしてお客様にはいつも変わらないおいしい源たれを提供する。これにつきると思います。
“上北農産加工”また“源たれ”の将来像があればお聞かせください!
私たちは青森初のナショナルブランドを目指すぞ!という意気込みでやっています。青森でも「これだけのことができるぞ!」「全国にないものをこれだけ発信できるんだ!」ということを全国に見せたいですね。
― 「源たれって、幸せ者ですね」 ふと私が言うと
ほんとにそう思いますよ。源たれのように47年経っても売上が伸びているロングセラー商品っていうのはなかなかないそうです。流通に詳しい方に「半世紀も売れ続けている源たれはすごい!そしてまだまだ伸びているとは信じられない」と言われるぐらい。
青森県のみなさんが源たれを愛し、使い続けてくれている。それが一番大きいですね!私なんて、家にないとパニくりますよ(笑)これはあくまで私の推定だけど、一家で一週間に一本は使ってるんじゃないかな。
なんとなく、実感としてそんな気がするんです。ということは月に4本。年間で40本以上使ってるんじゃないかな~(笑)
― どんな料理にも合いますもんね!
食卓にかかせない存在になれてうれしいです。
まだ食べた事のない人にも、ぜひ食べてもらって源たれを知ってもらいたい。
そしてファンになってもらえたら最高ですよね!
上北農産加工の魅力より抜粋
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津軽のカーネル・サンダース
「一体この方は誰??」
この方は小田桐 久さんという方で、地域活性化のためのプロジェクトにも携わっていらっしゃいます。以前知人を介して初めて写真で拝見した時には、あまりにもソックリで心底ビックリしました(*_*)
こんな『青森の人財』ともいえる方を、ぜひとも皆さんにご紹介したい!!と思い、今回取材させていただくことに♪♪♪
デビューは昨年、還暦祝いを兼ねた中学時代の同窓会だったそうです。その時、司会を任された小田桐さん。「皆の意表をつくような、何か面白いことをやってやろう!」と30年ほど前から(黒髪の頃から!)『似ている』と言われていたカーネルおじさんの格好をしてみることに・・・・・
カーネル・サンダースの情報をネットで調べることに始まり、そっくりな眼鏡は眼鏡で有名な福井県鯖江市から取り寄せ、スーツは仕立ててもらった特注品という力の入れよう。でも眼鏡とスーツ以外に身につけているのは付けヒゲのみ。やはり素顔が似ているんです^^
後日知人の方の提案で日本KFCさんに、この扮装をすることについてのお伺いをたててみたところ「一個人の利益のために利用するのは問題ですが、地元のイベントなど地域活性化のためにするのは問題ないですよ」との回答をいただいたそうです。
でもいつか「KFCさんの本社に行って、正式な許可をいただくのが目標!」なのだそうです。
「国内にとどまらず・・・・・」
以前、海外を訪れた際にもカーネルおじさんの格好で街を歩き、地下鉄にも乗車。
ナント実際にKFCのお店にも入って、食事をされたそうです。
その光景を見ていた現地の方たちは、「カーネルおじさんは未だ健在で、店舗の視察にやって来た!」と、本気で思ったそうです。ブハッ( ̄▽ ̄)
奥津軽で生存を確認?!より抜粋
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Colonel Sanders
ハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders、1890年9月9日 - 1980年12月16日)は、アメリカ合衆国の実業家で、ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者。カーネル・サンダース(Colonel Sanders)として知られている。
カーネル(Colonel)は名前でも、軍の階級(大佐)でもなく、ケンタッキー州に貢献した人に与えられる「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号(名誉大佐)である。日本では「カーネルおじさん」「ケンタッキーおじさん」の愛称が定着している。
カーネル・サンダースは、1890年にインディアナ州クラーク郡のヘンリービルで生まれた。ヘンリービルは、ケンタッキー州最大の都市ルイビルからオハイオ川を越え、北へ30kmほど離れた町である。父親はサンダースが6歳のときに亡くなり、母親が工場で働きながらサンダースとその弟妹を育てた。サンダースは10歳から農場に働きに出ている。学校は14歳で辞め、農場の手伝いや市電の車掌として働いた。
1906年、16歳の時に年齢を詐称して軍に入り、キューバで勤務した。彼の軍隊における経歴は一兵卒として終わっており、大佐(カーネル)どころか将校にすらなっていない。1907年に除隊した後は青年期にかけて様々な職業を渡り歩き、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員、フェリーボート、タイヤのセールスなど40種に上る職を転々とした。30代後半にはケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドを経営するようになるが、大恐慌のあおりを受けて倒産するなど多くの波瀾を経験した。
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カーネル・サンダース
1930年にカーネルサンダースはケンタッキー州のノースコービンへ移り住み、ガソリンスタンドの経営を始めた。1930年6月、ガソリンスタンドの一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー「サンダース・カフェ」を始める。サンダースは、ガソリンスタンドの支配人と調理師とレジ係を兼ねた。州の南北を貫く幹線道路である国道25号線に面した店は繁盛し、規模を拡大した。1935年には「州の料理への貢献」が評価されて、ケンタッキー州のルビー・ラフーン知事から「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられた。
「サンダース・カフェ」は、1937年にはモーテルを併設した142席のレストランに成長した。1939年には店舗が火災に見舞われるなどの災難もあったが、1941年にはコービンに147人収容のレストランを再建した。この店舗は博物館となり、アメリカ合衆国国家歴史登録財となった。
「サンダース・カフェ」の目玉商品がフライドチキンであった。1939年に導入された圧力釜を用いた「オリジナル・フライドチキン」の製法は、以後70年以上にわたって「オリジナル・レシピ」として引き継がれている。
1964年に74歳のサンダースは、KFCの権利をジョン・Y・ブラウン・ジュニアに売却して経営の第一線から退いたが、以後も「会社の広告塔」として働いた。サンダースは製法が守られているかを確認するために世界各国に広がった店舗を見て回った。
1970年にKFCが進出した日本には、1972年10月、1978年6月、1980年5月の3度訪れている。KFC日本法人によれば「日本のKFCが一番気に入っている」と述べていたといい、「日本びいき」であったと紹介している。1980年5月に訪れた日本はサンダースにとって最後の訪問国となった。1980年6月に急性白血病を発症し、肺炎を併発して12月16日に逝去。90歳だった。
サンダースはロータリークラブとフリーメイソンのメンバーでもあり、多くの慈善活動も行った。孤児院の子供のために毎日アイスクリームを提供したり、肢体不自由児のための基金をつくったりしているほか、病院や医学研究、教育、ボーイスカウトなどの活動に資金を提供している。来日した際には、交通遺児との交流を行っている。
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カーネルサンダースの呪い
カーネル・サンダースの呪いとは、1985年10月16日に、日本プロ野球球団、阪神タイガースの21年ぶりのセントラル・リーグ優勝に歓喜した阪神ファンが、ケンタッキーフライドチキン道頓堀店の店頭に設置されていたKFCコーポレーションの創業者でマスコットでもあるカーネル・サンダースの像を道頓堀に投げ入れた因果で、翌年以降の同球団の成績が低迷しているとされる都市伝説の一つである。
阪神は翌年以降から17年連続でリーグ優勝を逃しているが、その急激に弱体化した原因を説明するためにこの呪いが取り上げられた。一部のファンは像が回収されるまで優勝は無理だと信じていた。KFC秘伝の「11種類のハーブとスパイスのブレンド」のレシピを漏らそうとする者に生命に危険が及ぶとされる「カーネルの呪い」としても使用されてきた。
2009年3月10日、道頓堀川・戎橋下流200 - 300m付近、南側護岸から約5m、水深約2mの川底地点で、大阪市建設局による水辺整備事業の一環として障害物調査並びに除去作業を依頼された南海辰村建設が潜水作業員を投入し、磁気探査作業中に反応があった川底を調査していたところ、1985年に投げ込まれたとみられるカーネル・サンダース像の上半身が発見され、台船のクレーンで引き揚げられた。引き上げた作業スタッフたちはこれを死体と勘違いしたが、すぐにカーネル・サンダース像であることを確認し、ヘドロにまみれて灰色になり眼鏡や手首も外れてしまっていたが原形は留めていた。翌3月11日にも潜水作業員が引き続き調査したところ、8時53分に右手、9時頃に下半身が発見され引き揚げられ、11時25分頃に前日見つかった上半身部分と合体し同じ像のものと確認された。下半身・右手発見後の時点で眼鏡・両足首・左手は紛失状態であり、付近を入念に調査したが発見の可能性が薄いため、同日捜索開始から50分後に作業打ち切りとなった。
発見された像について日本法人は、2009年3月時点で他に行方不明の像は無く、外形・発見地点などの要素から当時に投げ込まれた像に間違いない、とコメントしている。像の処遇について、元来の所有権は道頓堀店にあったがすでに閉店しているため、日本法人が引き継いだ形で大阪市と協議していたが、同年3月11日に日本法人へ像の返還が決定し、同年3月13日に大阪市役所にて日本法人社長に引き渡された。像は専門家にて検査と最小限の修復を行い、当面大阪市内の警備会社金庫で保管されることになった。紛失状態の眼鏡は、投げ込まれる以前に掛けていた同型のフレームが1990年前後まで製造を担当していた鯖江市内のメーカーに残存しており、福井県鯖江市と福井県眼鏡協会から日本法人に贈呈された。
この像は2009年6月25日に、日本法人が実施している「チキン感謝祭」に併せ、NPO「文化財保存支援機構」による修復作業後の姿が住吉大社で公開され、「おかえり! カーネル」と命名された。同年8月に大阪市内で実施されるイベント「水都大阪2009」で展示された。
しかし甲子園歴史館から断りの連絡があったこと、人形のモデルでもあり同社の創業者であるカーネル・サンダース本人の生前のキャラクターを考慮したことなどから、2009年12月17日をもって表舞台からの引退が決まった。
その後、像は甲子園球場最寄りの阪神甲子園店(阪神の親会社である阪神電気鉄道の甲子園駅前にある。阪神甲子園球場内には別に「甲子園球場店」が存在する)での展示が決定し、2010年3月19日から常設展示が実施されていたが、2013年3月には日本KFCホールディングス社本社へと移転した。
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そっとテロリスト
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クイズベルリンの壁
メインの映像作品は、ドキュメンタリー、クイズ、教育、体操、等バラエティーに富んでおり、90分の枠内に6~7本が放送されます。映像作品と言ってもアート性のようなものはなく、いずれも実に馬鹿馬鹿しい仕上がりになっています。
今となっては「TVチャンピオン」、「えいごリアン」等で有名な中村有志氏ですが、この番組ではかなりダーティーなポジションに組み込まれています。若い世代の番組制作者が、実験的に深夜枠で作りたい番組を作るのが主流だったころで、深夜枠が一番面白かった時代です。
【出演】 岸田今日子、金田明夫、
中村有志、植田あつき、高見沢 琴、紅地 秋、麻田かりな 他
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レール7
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レール7 概要
レール7の月曜から金曜には、鉄道に関する情報や鉄道旅行などを取り上げていた。JR各線の運転状況 - JR東日本輸送指令担当の男性社員が、首都圏管内の在来線と東北・上越・東海道新幹線の運転状況を音声のみで伝えていた。
曜日別特集の内容は7分程度と短い時間ながら、要点がコンパクトにまとめられていた。鉄道事業者提供の強みもあって、月曜は駅訪問、火曜は現業機関や新型車両などの紹介が多かったが、1987年以降はスポンサーがJR7社のうちJR東日本だけになったことから、JR東日本エリアの情報が中心になった。寝台特急「北斗星」絡みでJR北海道の情報はあった。
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町井洋子さん
番組MCの町井洋子さんは、そっとテロリストの問題を読んでいた方でもあります。時系列で言うとレール7の出演が先になるのですが、テーマ特集との絡みで前後しました。そっとテロリストの声だけでは声質の良い人にしか思わなかったのですが、実際にお姿を拝見すると清楚で可愛らしいですね(^^♪ 町井洋子さんは年齢を公表していないので推測の域を出ないのですが、恐らく50代になっていることでしょう(>_<)
レール7放送当時は、札幌に住んで大学に通っていました。テレビ北海道が1989年(平成元年)10月1日に開局したばかりで、番組の存在自体を知らなかったのです。もし知っていたら、タイマー録画をしてでも見たかったです。ブルートレインも終焉するような現代にとって、ものすごく貴重な番組でした。
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機械を守る人たち
マルス (MARS : Multi Access seat Reservation System) は、日本国有鉄道(国鉄)・JR座席指定券類の予約・発券のコンピュータシステムである。
マルスシステムの中央装置(ホストコンピュータ)は東京都国分寺市にあり、国鉄分割民営化以後は鉄道情報システム株式会社(JRシステム)が保有・運営している。中央装置で一括管理する集中型をとっており、中央装置は、歴代日立製作所の大型コンピュータ・超大型コンピュータが採用されている。2010年現在使用しているマルスは「マルス501」である。マルスの稼働時間は、朝4時00分から翌日2時00分まで。
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手動改札
改札は、主に鉄道において駅員や乗務員等の係員や自動改札機により乗客の乗車券の効力を確認した上で既使用に改める行為である。元来、乗車券の使用開始の際に行われる入鋏・押印を指したが、現在では途中における乗車券の効力確認についても改札(車内改札)と呼ばれる。日本では、駅員が改札口に立って改札を行うことが多かったが、係員の代わりに機械が改札を行う自動改札機の導入が大都市圏だけでなく地方都市圏にも広がりつつある。
入場時には、切符に使用済みであることを示す印が入れられる。係員による有人改札ではそのための道具として、日本では鉄道創業以来長らく改札鋏という専用の鋏で独特の切込みを入れてきたが、1990年代を境に順次、駅名や鉄道事業者名と日付を示す改札印(スタンプ)が導入され、これに切り替えられた鉄道事業者が多い。また同時期に普及が進んだ自動改札機では切符が改札機に投入された際、券面に穴をあける。いずれの場合も、使用開始であることを示すために切符に改札鋏等で印をつけることを「入鋏(にゅうきょう)」という。出場時には、原則として切符を回収する。
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