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Channel: スチャラカでスーダラな日々
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扇子

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京扇子のできるまで その1

扇子扇子とは、うちわと同じく自分の手で風を送るのに用いる道具。古くは扇(おうぎ)と呼ばれていた。

数本から数十本の細長い竹や木で出来た骨を束ねて端の一点(要=かなめ)で固定し、使わないときは折り畳み使用時に展開する。骨には大抵和紙が貼られており、展開すると紙を貼られた部分が雁木形の扇面となる。折り畳むことでコンパクトに納める。開閉の方法は、骨を右手親指でずらすように押すことで開く。一般的には右利き用であるが、左利き用も販売されている。扇子そのものを振ることで開く方法もある。

扇子を開く角度は、大体90度から180度の間で円を三等分した中心角120度前後のものが主流である。扇子を開いた形は、「扇形」と言い、幾何学の用語にもなっている。このような扇子の形状は、「末広がり」に通ずるので縁起のよいものとされてきた。そのため、めでたい席での引出物としても用いられている。

京扇子のできるまで その2

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尾島ねぷたまつり

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尾島ねぷたまつり

荘厳な武者絵巻が夏の夜を鮮やかに彩る尾島ねぷた。

----------☆★☆2014年の尾島ねぷたまつりパンフレット☆★☆-------

尾島ねぷたパンフレット
画像をクリックすると原寸大のパンフレットが見られます。元に戻るにはブラウザの戻る矢印で戻ります


----------◆◇◆ねぷたまつり交通規制図◆◇◆-------

8月14日・15日 交通規制にご協力ください

8月14日・15日の尾島ねぷたまつりでは、ねぷたの商店街運行に伴い、下図のとおり交通規制が行われます。規制される時間は、両日とも午後6時~午後10時までです。よろしくご協力ください。

尾島ねぷたパンフレット
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尾島ねぷたまつり動画

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群馬県尾島 ねぷた祭り

尾島ねぷたまつり昨年の8月14~15日に開催された尾島ねぷたまつりの様子です。「ヤーヤドー」の掛け声と共にねぷたが会場を練り歩き、祭りの最後には太鼓とまつり囃子の大合奏があります。この辺が本家の弘前ねぷたと違うやり方です。

絵師は弘前の方が多く描いていて、三浦呑龍絵師も数台の団体にねぷた絵を提供しています。他にも数名の絵師が描いているようですが、画のタッチから想像するに同じく弘前の木村邦仙絵師も尾島ねぷたを描いています。下のYouTubeのねぷた絵を参照。

せっかく関東に住んでいるので、今年は尾島ねぷたを撮影したいものです。祭り会場に近い東武鉄道伊勢崎線の木崎駅から1kmと歩いて行ける距離にあるので、PM5時頃には場所取りを済まして撮影体制に入りたいものです。

2013 太田市尾島ねぷたまつり

昭和44年の弘前

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【カラー映像】 昭和44年の弘前 HIROSAKI 1969

旧 国鉄弘前駅
1969年に撮影された 旧 国鉄弘前駅 2代目駅舎・かくは宮川の看板が懐かしい

4代目の弘前駅この頃の弘前駅に行きたかったです。YouTubeのビデオはどこかのTVドラマからの引用とは思いますが、実によく当時の様子をそのまま捉えています。

1968年1月生まれなので私自身は実在していたのですが生まれて間もない物心も付かない頃なので、この頃の記憶がありません。1981年(昭和56年)4月24日から3代目駅舎が供用開始されたので、この2代目駅舎は実質的に1980年まで見られていたことになります。2004年(平成16年)12月12日より4代目駅舎が供用開始されたので、弘前駅前の風景もガラッと変わりました。発車ベルの音は、津軽じょんから節の三味線になりました。

1976年8月5日に撮影された弘前駅前
1976年8月5日に撮影された弘前駅前

上写真を撮影されたekimei-hyo様から掲載許可を戴きましたので、弊ブログに転載させて戴きました。

昭和44年のねぷた

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【カラー映像】 昭和44年の弘前 HIROSAKI 1969:動画の後半で当時のねぷたが出ます

下土手町・町印
下土手町・町印

実に印象深い下土手町の町印と前ねぷたです。町印と言うのは、出陣団体の標識のようなものです。前ねぷたは、本ねぷたの前に運行される前座・露払いのような存在です。この前ねぷたは金魚ねぷたです。津軽錦と言う金魚がこの地域の名産でもあるのですが、今では宵宮の露天商でしか見かけなくなりました。

下土手町・前ねぷた
下土手町・前ねぷた

石澤龍峡ねぷた絵
故・石澤龍峡ねぷた絵

上の画像は、故・石澤龍峡絵師が描いたねぷた絵です。毎年ねぷたを撮影しているので、筆の進み具合で絵師の名前まで分かります。これは過去に所蔵していた写真より、一番上の動画からキャプチャして絵師の名前を判断しました。石澤龍峡絵師は、津軽錦絵協会会長の三浦呑龍絵師を始めとする樽書き法と言う画法の系譜の開祖です。三浦呑龍さん、高橋翔龍さん、八嶋龍仙さんが現在の樽書き法で描く代表格です。いずれも龍峡先生の弟子です。龍峡に因んで龍の字を一字戴いた絵師が樽書画法の絵師です。

樽書画法:下絵を描かずに巨大な和紙に向かって一気に描き進む画法です。これは石澤龍峡先生が始めた画法で、行書体とも言えます。

長谷川達温ねぷた絵
故・長谷川達温ねぷた絵

当時の名絵師だった長谷川達温のねぷた絵です。眼の鋭さが非常に良いです。これも過去に所蔵していた写真より長谷川達温絵師のねぷた絵と判断しました。当時の記録がないので、いずれも画題は不明です。ねぷた絵から推測すると、武田信玄奮戦の図だと思われますが・・・樽書画法以外は、全て下絵画法の絵師です。

下絵画法:ねぷた絵師の殆どは先に1/10の下絵を描き、更に十倍に拡大して描く方法をとっています(下絵画法)。失敗はありませんが、誤差の修正技術が必要な画法です。これは竹森節堂先生が始めた画法で、楷書体とも真書法とも言われます。

長谷川 達温

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絵師 長谷川 達温(故人)

2013年8月4日に弘前市樹木のギャラリー森山で許可を得て撮影した長谷川達温のねぷた絵です。

長谷川 達温
ねぷた和尚と呼ばれた故・長谷川 達温

見送り絵
(見送り絵)

三國志 張飛奮戦の図
三國志 祝融夫人飛剣之図(太鼓)
三國志 祝融夫人飛剣之図
三國志 祝融夫人飛剣之図

故・長谷川 達温を想う
故・長谷川 達温を想う1

三國志 張飛奮戦の図
故・長谷川 達温を想う2
写真・記事の無断使用不可

長谷川 壽一

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絵師 長谷川 壽一(故人)

2013年8月4日に弘前市樹木のギャラリー森山で許可を得て撮影した長谷川達温の息子 壽一のねぷた絵です。

見送り絵
(見送り絵)

津軽為信勇戦の図
津軽為信勇戦の図(鏡絵)

掛軸絵
(掛軸絵)

三国志 項羽奮戦の図
三国志 項羽奮戦の図

三国志 花和尚奮戦の図
三国志 花和尚奮戦の図
写真・記事の無断使用不可

ギャラリー森山
弘前市樹木にあるギャラリー森山の看板

ギャラリー森山への地図を大きな地図で見る

土淵川氾濫

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寺沢川氾濫

昭和50年の土淵川氾濫

昭和52年8月5日
集中豪雨により土渕川、寺沢川氾濫、特に寺沢川上流の溜池決壊により急激な増水、死者9名、負傷者20 名、人命救助344 名、全壊流失12 棟、半壊76 棟、床上浸水1,943 棟、床下浸水2,972 棟、損害合計71 億1,234 万円

この頃は建て替え前の朝陽小学校に通っていました。ちょうど小学三年生の夏だったのですが、同級生も床上浸水の被害を被った甚大な災害でした。

寺沢川氾濫
寺沢川と書かれた看板の下に引かれている赤線まで実際に水位が上がった:弘前市南塘町

土手町黒歴史

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梅家一家(裕統一家)

土手町黒歴史昭和59年10月19日に青森県弘前市で起きた暴力団同士の抗争事件を撮影したビデオです。危険を察知して店を閉める商店街の店主たち。迫りくるヤクザと車で逃げるヤクザ・・・。

事の真相は佐藤会(秋田)が弘前に進出しようとして、青森県青森市に本拠を置く暴力団の梅家一家(現:裕統一家)から激しく抵抗された抗争事件です。今は亡きハイローザが映っている貴重な映像です。この時は、高校二年生で学校で授業中でした。この抗争のビデオがYouTubeにupされてから初めて知った状態です。あれ以来、弘前市で暴力団は見かけません。裕統一家の本拠地が青森市にあるからでしょう。

昭和59年青森県弘前市 市街地での暴力団同士の抗争

幽霊ねぷた

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1998.8.1 海遊会・絵師 小野 隆昌 前ねぷた・生首(鏡絵)
1998.8.1 海遊会・絵師 小野 隆昌 前ねぷた・生首(鏡絵)

青森県弘前市の石場旅館にあった幽霊の巻物幽霊とは、何かを告知したり要求するために出現するとされていた。
その後次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされ、
凄惨なものとされるようになった。

「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、平家の落ち武者や大戦での戦死者のように、死んだときの姿のまま現れると言われる幽霊も多い。幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊である。その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば成仏する。

日本で葬式の際に願戻し、死後の口寄せ、あるいは施餓鬼供養などを行うのは、ある意味で死者たちが成仏しやすくしてやり幽霊化するのを防ぐことだと言える。

日本は島国なので、海の幽霊の話も多い。船幽霊とも言う。その内容は幽霊船が現れて幽霊が「柄杓(ひしゃく)を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水船(水没してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならないとする。紀州に伝わる話では、幽霊船が出たら構わずぶつかってゆけば消えてしまう。幽霊は室町時代以降、歌謡や歌舞伎のテーマとしても扱われるようになった。

出会った時点では幽霊であるとは気づかず後になってから、既に亡くなった人物であったと気づく話は、古代から現代にかけて語られている。

江戸時代以前から怪談という形で伝承され、江戸時代には幽霊話が大流行し、雨月物語、牡丹燈籠、四谷怪談などの名作が作られ、講談・落語や草双紙・浮世絵で描かれ花開き、現在も題材として新作から古典の笑話・小説・劇などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。

2003.8.2 下新町ねぷた愛好会・絵師 三浦 呑龍 幽霊(見送り絵)
2003.8.2 下新町ねぷた愛好会・絵師 三浦 呑龍 幽霊(見送り絵)

2004.8.2 下新町ねぷた愛好会・絵師 三浦 呑龍 鬼神のお松(見送り絵)
2004.8.2 下新町ねぷた愛好会・絵師 三浦 呑龍 鬼神のお松(見送り絵)

生首ねぷた

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2006年7月22日に生首の骨組みに紙が貼られ、書き割りされ色付けされました。絵師 三浦 呑龍
2006年7月22日に生首の骨組みに紙が貼られ、書き割りされ色付けされました。絵師 三浦 呑龍

生首ねぷた歴史上、戦場において倒した敵の首を切り落とす行為は古今東西を問わずに広く行われてきた。これは勝った者の武勲を示す証拠を得るための行為とされ、長く戦う者の誉れと考えられてきたからである。また単に首を落とすだけでなく、得た首そのものに関しても、首実検によって戦功を計る材料としたり、何らかの技法で腐らないようにしたのち家に飾ったり、時には呪術的な実験の材料とされるなど、様々な用途に使用された。

日本の武士社会において死罪を与えられた場合は切腹することとなるが、その際実際には腹に刀を当てたとほぼ同時に介錯されて首を落とされることが多い。戦勝の証にしろ、重罪人の見せしめにせよ、どちらも共通しているのは「さらされた人物は死んでいる」という絶対的な事実を突きつけることである。本能寺の変などでは織田信長の首印を得ることができなかったことが、明智光秀のその後の天下掌握の失敗の一因となったとも言われている。

前述した戦場の件も含めて、武士とは、このような生首と斬っても切れない側面を持つ文化を持っていたと言える。しかしそうした側面は武士以外の階層文化においても見られ、刑が執行された後に重罪人の生首を衆目にさらすさらし首という刑は、平安時代の以後、幅広く行われた。

担ぎねぷた・鏡絵 絵師 三浦 呑龍
2006年8月3日に撮影した担ぎねぷた・鏡絵 絵師 三浦 呑龍

2008.8.5 下新町ねぷた愛好会・絵師 三浦 呑龍 幽霊(見送り絵)
2008.8.5 下新町ねぷた愛好会・絵師 三浦 呑龍 幽霊(見送り絵)

2012.8.4 下新町ねぷた愛好会・絵師 三浦 呑龍 化猫(見送り絵)
2012.8.4 下新町ねぷた愛好会・絵師 三浦 呑龍 化猫(見送り絵)

座敷わらし

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座敷わらしの正体

民宿レストラン『苫屋』2012年12月19日テレビ朝日『ナニコレ珍百景』にも登録されました♪ 『座敷わらし』を見たと噂される不思議な民宿レストラン『苫屋』です。

座敷童子を見た人の話によると、座敷わらしは着物姿のかわいい女の子で、名前を聞いた­ところ・・・自分は「春ちゃん」と名乗ったそうです。もし出会えれば幸運になれるかも­しれませんね^^ 電話のないお宿なので、宿泊の予約は往復ハガキでします。 宿泊キャンセルは電報で!

所在地 苫屋(とまや)Japanese inn"Tomaya"  〒028-8201 岩手県九戸郡 野田村大字野田5-22-1

なんと!電話のない旅館 ? 『座敷わらし』の出る隠れ宿

座敷童子

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座敷童子 / zashikiwarashi

座敷童子座敷童子は主に岩手県に伝えられる精霊的な存在。座敷または蔵に住む神と言われ、家人に悪戯を働く、見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらすなどの伝承がある。近年では、座敷わらしに会える宿として岩手県の「緑風荘」「菅原別館」「わらべ」などがテレビ番組や雑誌に取り上げられることでも知られている。

主に岩手県を中心として報告されているが、青森県、宮城県、秋田県など東北地方各県にも分布するといわれる。一般的には、赤面垂髪の5、6歳くらいの小童というが、年恰好は住み着く家ごとに異なるともいい、下は3歳程度、上は15歳程度の例もある。髪はおかっぱ、またはざんぎり頭。性別は男女両方が見られ、男の子は絣か縞の黒っぽい着物を、女の子は赤いちゃんちゃんこや小袖、ときには振袖を着ているという。はっきりとした姿がわからないために、性別が不明な場合もあるという。男女2人など複数が家に住み着いていることもある。黒い獣のような姿、武士のような姿といった伝承もある。

悪戯好きで、小さな足跡を灰やさらし粉の上に残し、夜中に糸車を回す音を立てるともいわれ、奥座敷で御神楽のような音を立てて遊ぶことがある。また家人が一人で縫い物をしていたとき、隣の部屋で紙ががさがさする音や、鼻を鳴らす音がするので、板戸を空けると誰もいないなどの話が伝わっている。夜になると客人の布団の上にまたがったり枕を返したり、悪戯をして眠らせまいとするが、押さえようとしても力が強くて歯が立たないともいう。子供と一緒に遊んだりもする。

語り部・佐々木イセさんの遠野昔話「座敷わらし」

甘酒アイス

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甘酒アイス CM

甘酒アイスアイス天国より抜粋
昔懐かしい甘酒の風味をそのまま生かした愛媛の代表的な甘酒アイス、無添加、無着色の本物の味わいをお届け。

四国西日本最高峰石鎚山の麓、西条市には90年~100年前の伏流水が地下水となり、流れています。この水は、環境省「全国名水100選」、「全国水の郷34選」などに認定されました。

この名水の地にアイス工場を構え、果実や自然の恵みを大切に地産、国産にこだわり厳選した材料を使用して名水で仕上げる「マルコウ」は愛媛県で長い歴史を持つアイスメーカーです。古くから人気の甘酒アイス、原料より見直しを行い、リニューアル商品として生まれ変わりました。着色料、香料、安定剤等食品添加物を使用せず、国産酒粕100%で仕上げた、甘酒の香りと深い味わいをぜひお楽しみ下さい。

森永 甘酒アイス

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甘酒 ダンス教室

森永 甘酒アイス森永製菓は、『森永甘酒』の発売40周年を記念して、同商品の味わいをイメージした「甘酒アイス」を7月14日から新発売した。価格は税別で120円。

こだわりの酒粕と米麹を使用し、ふくよかで芳醇な甘酒の風味がありながらも、キリっとすっきりした後味になるよう仕上げたという大人のためのカップアイス。

一般的には“冬の飲み物”のイメージが強い「甘酒」。しかし俳句では夏の季語とされ、江戸時代からの夏の暑さ対策として飲まれ続けてきた。

ここ数年は昔ながらの“夏バテ対策”飲料として改めて注目され、2013年度における同社の「冷やし甘酒」の売上は、2010年度の約7.5倍と急伸長したそうだ。この夏は「冷やし甘酒キャラメル」と「甘酒アイス」の発売により、さらに「森永甘酒」を盛り上げていくという。

カチューシャ

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ロシア民謡『カチューシャ(Екатерина)Катюша』バンジョー 即興演奏

Катюша (песня)「カチューシャ」(露: Катюша)はソビエト連邦の時代に流行したロシアの歌曲である。作詞はミハイル・イサコフスキー、作曲はマトヴェイ・ブランテルである。日本でもロシア民謡を代表する一曲として広く親しまれている。この楽曲は、カチューシャという娘が川の岸辺で恋人を思って歌う姿を描いた。カチューシャとは、エカテリーナ(Екатерина)の愛称形である。

この歌の制作は、イサコフスキーとブランテルが1938年に出版社の仲介で引き合わされたことに端を発する。2人は依頼された新刊雑誌のための歌曲を完成させると、帰りの車中で早くも次の作品への構想を立てた。ブランテルが自らの率いる国立ジャズ・オーケストラのための曲作りを持ちかけると、イサコフスキーはその場で自作の詩を暗誦した。ブランテルは歌詞を書きとめながら、その時すでにリズムと旋律が頭の中に浮かんでいたという。

当初の歌詞は2番までしかなく、カチューシャの恋人が兵士として徴用されていることを示唆する内容はなかった。しかし当時の不穏な世界情勢を反映して、国境警備に当たる若い兵士を故郷の恋人が思って歌うという設定で3番と4番の歌詞が書き足された。こうして完成した「カチューシャ」は、1938年11月27日にワレンチナ・バチシェワ(Валентина Батищева)によってヴィクトル・クヌシェヴィツキー(Виктор Кнушевицкий)の率いるジャズ・オーケストラとの共演で初演された。この初演は好評を博し、アンコールに応じて3度も演奏された。

Katyusha dance War Army solo Военный танец Катюша сольный

パパーハ

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Папаха от Анатолия Кириченко

パパーハを被ったメーテルロシアのパパーハ (Папаха)は、高い毛皮の帽子であり、通常カラクールの毛皮を用いて作成される。パパーハは一般に一方向が外に向けて開けた円筒状をしており、こめかみ部分に帽子のつばが触れるような形で頭に装着する。また、使用しないときには折りたたむ事ができるような耳当てが付いているものも存在する。よく似た帽子にクバンカ (Кубанка)というものがあり、材質は似ているものの帽子部分が低く、耳当てはない。

パパーヒは、グルジアの山間部において着用されることが非常に多い。パパーハはチェチェン人やその他のカフカス人部族も着用しており、ロシア帝国がコーカサス山脈地域の征服を行った際にロシア帝国軍の間で使用されるようになり、1855年にコサックの公式の制服として取り入れられた。その後、ロシア帝国の他の騎兵連隊にも取り入れられた。

ロシア革命後すぐ、パパーハはロシア帝国時代を象徴する存在であり、ロシア帝国の多くのコサック兵団がボルシェヴィキに反抗して戦ったという理由により、赤軍の新たな制服から外された。ロシア内戦の期間中、多くのボルシェヴィキ騎兵やヴァシーリー・チャパエフのような将校は、彼らがコサック出身であり騎兵の制服として常用していたという理由からパパーハもしくはクバンカを被っていた。

パパーハは1935年にユニフォームとして再び取り入れられたが、1941年には大佐や将軍など軍高官専用のものとなり、パパーハは地位や高官を象徴する存在となった。1994年、パパーハはそれまでのものよりも低い、耳を防護することができない構造の帽子となり使用に向かないという使用者の申し立てにより、再び軍の装備から外された。このクラウンの低い帽子はカフカスの温暖な気候には適したものであったが、より気温の低い地域では使用に向かず、強風から身を守る効果もなかった。

パパーハを軍の装備から外そうという試みはボリス・エリツィン政権時代に、それまでのソビエト連邦の伝統を廃止し、新たな国の政治体制確立公約を象徴的に実証するための試みとして実行されたが、2005年、パパーハは再び軍の装備に復帰した。ちなみに銀河鉄道999に登場するメーテルが被る帽子は、このパパーハである。

Кавказские папахи

ロシア帽

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Голова на плечах, и не только

Шапка-ушанкаロシア帽は、ロシアをはじめとする零下数10度にもなる寒冷地で頭部の防寒のため着用される毛皮(ファー)の帽子。その独特のスタイルから、ウォッカ、バラライカ、ルバシカ、ドゥブリョンカなどと共にロシアを象徴するものとして知られている。

ウシャンカの"уш"とは"уши"、即ち"ухо(耳)"の複数形を示しており、名前はこの帽子の特徴である耳当てに由来する。従って、コサック帽やアストラカン帽などの耳当ての無い帽子は基本的に「ウシャンカ」とは呼ばない。耳当ては通常上方へ折畳んだ状態で、付属の紐を頭頂部で結び固定されている。耳当てを使用した場合、耳や顎、後頭部が完全に隠れる。耳当てが顎に干渉すると首の動きが若干制限されるが、この場合は耳当ての紐を後頭部で結び合わせる。

ロシア連邦軍の正式装備では、基本的に陸上部隊が灰色、海兵が黒色。将校用のウシャンカはウサギ等の天然素材だが、兵卒に支給されるウシャンカの素材はアクリル製人工毛で"рыбий мех(魚の毛)"と揶揄されているが、安価で水や汗に強く、汚れても丸洗い可能など利点も多い。

烏帽子

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立烏帽子(中央女性の被りもの)と張烏帽子(周囲に従う男性の被りもの)
立烏帽子(中央女性の被りもの)と張烏帽子(周囲に従う男性の被りもの)

烏帽子形(えぼしなり)の兜烏帽子とは平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のこと。初期は薄い絹で仕立てたものだったが、のちに黒漆を塗った紙製に変わる。庶民のものは麻糸を織ったものである。衣装の格式や着装者の身分によっていくつかの種類があり、厳格に使い分けた。正装の際にかぶる冠より格式が落ち、平安から室町にかけては普段着に合わせて着装した。本来男性用であるが白拍子など女性が被る場合もある。

平安以降、次第に庶民にも普及し、鎌倉から室町前半にかけては被り物がないのを恥とする習慣が生まれた。烏帽子は当時の男性の象徴であり、これを取られる(または脱がされる)ことは屈辱的、恥辱的行為であり、紛争の発端になりやすい。しかし戦国時代以降、逆に日常は髷を露出し被り物を着けないのが普通となった。

近代になると月代を剃る習慣が生まれ烏帽子を固定する髷がなくなったため、頭にすっぽりとかぶり掛緒を顎にかけて固定するタイプのものが用いられることが多い。大相撲の行司が着用しているのを見ることができる。これに反して、明治初期の公家は大きい烏帽子を多用していた。兜の中には、烏帽子形(えぼしなり)の兜が存在する。

八坂神社の烏帽子
八坂神社の烏帽子
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