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龍泉洞

岩手県岩泉町 「日本三大鍾乳洞 龍泉洞」

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龍泉洞
龍泉洞は、岩手県岩泉町にある鍾乳洞。総延長約1,200m。高低差約249mは日本の洞窟中第5位。秋芳洞(山口県美祢市)・龍河洞(高知県香美市)と共に「日本三大鍾乳洞」の一つに数えられる。また、地底湖は龍泉洞地底湖の水として1985年(昭和60年)名水百選の一つに選定された。

実際の全長は2.5km以上とも5km以上とも言われている。平成24年11月現在で3631mまで確認されている。1968年(昭和43年)に洞窟探検家が潜水事故を起こして以来、調査されていないので予測数値である。水深98mの第3地底湖、120m以上ある第4地底湖(未公開)等、全部で7つの地底湖を持っている。

観光整備工事中の1967年(昭和42年)に龍泉洞入洞口の向かい側に新たに洞窟が発見され、龍泉新洞と命名された。また、その洞内から土器・石器などが多数発見された。調査によれば、龍泉新洞は龍泉洞の下流部分にあたるが、実際に水中部を潜り調査したことはない。龍泉洞の水が再度地下に潜り込み、本洞前の清水川の下を「第二の川」のように流れ、龍泉新洞の「泉」で湧いていることが分かっている。龍泉洞の潜流地点から龍泉新洞の「泉」まで、5分ほどで到達している。

龍泉洞の水は世界でも有数の透明度を誇っていることで有名であるが、これは、地下深くに潜り込んだ沢の水が、地底湖で湧出するためである。良質の腐植土によって濾過され、また、地中の石灰質を多く溶かし込んでいるので、味がしっかりとしたものとなっている。

龍泉洞:2012.08.07

この龍泉洞も高校一年の夏に訪れている。西暦で言うと1983年8月の夏休み。高校の自由参加行事で行った田老町でテントを張って宿泊したが、右足のふくらはぎが強烈な蚊に刺されていまい今でも跡形が残っている。それでも龍泉洞に行けて良かった。当時の写真は、入り口ばかりしか撮っていないので割愛させていただく。

安家洞

安家洞

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安家洞「神殿」
安家洞は、日本の岩手県下閉伊郡岩泉町にある鍾乳洞であり、日本一長い洞窟で総延長約23,702m。文部科学省によって国の天然記念物に指定された。

入り口は1つだけ、途中で一旦東西に分岐する主洞の長さは約2,300m、更に山内新洞・高月新洞・砂山連洞・瞬華洞などの無数の支洞が延びている。古くは地元の子供達の遊び場であったが、特定非営利活動法人日本洞穴探検協会等による探検が進むにつれて巨大な鍾乳洞であることが判明した。近年も巨大フローストーンや地底湖、日本最大のシールド群が発見されている。

毎年4月中旬から11月上旬までの期間は、午前8時30分から午後4時30分までの時間、入り口から700m地点の千枚皿までの範囲が一般に公開されている。洞内は平均気温が8℃と寒く、天井が低い場所もあるため、入り口で上着とヘルメットが貸し出される。

安家洞

木古内駅のキーコ

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木古内駅のキーコ
木古内駅のキーコ

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木古内駅のキーコ
キーコ 駅長のサイトから抜粋
木古内町の新しいマスコットキャラクターが、はこだて和牛をモチーフとした「キーコ」に決定しました。

「キーコ」は、デザイナー・プロデューサー山本寛斎氏が代表の「寛斎スーパースタジオ」と町との協働で生まれました。平成25年6月にはJR北海道の小池昭夫社長から木古内駅新幹線観光駅長に委嘱され、平成27年度北海道新幹線開業に向けて、当町のPRを様々な場所で行います。PRイベント等がない時は、役場ロビーに設置する駅長室で新幹線駅長として勤務します。

残り777日

復活して欲しい番組

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第9回アメリカ横断ウルトラクイズOP 1985年11月 決勝パリ

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アメリカ横断ウルトラクイズ
記事のネタが無くなったのでブログネタから自分が書けそうなネタを・・・今一番復活して欲しい番組は、アメリカ横断ウルトラクイズを置いて他にはないでしょう。クイズフリークなら必ず見ている番組です。それぞれの回についても詳細に書きたいのですが、アメリカ横断ウルトラクイズの裏話については今だから話せるウルトラクイズ裏話で当時の問題作成責任者がブログで情報を発信しているので、そちらを御覧ください。私もコメントしたことがあります。

アメリカ横断ウルトラクイズは第10回から参加資格があったのですが、当時札幌に住んでいて廃線前の鉄路を乗りに出かけていたので参加が叶わなかったです。当時は視聴者参加型のクイズ番組が多くて、番組作りの原点はこれだと思っていました。ただ見ているだけで良かったのです。それが今ではパネルクイズアタック25だけになってしまいました。NHKのクイズホールオンも終わってしまったし・・・もう一度、原点回帰で視聴者参加型クイズ番組があってもいいと思います。                          Image may be NSFW.
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復活して欲しい番組
ブログネタ:復活して欲しい番組 参加中

ボブ・ホーナー

ヤクルト 赤鬼ホーナー

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ボブ・ホーナー
ボブ・ホーナー(James Robert "Bob" Horner , 1957年8月6日 - )は、アメリカ合衆国アリゾナ州出身の元プロ野球選手(内野手)。「赤鬼」「黒船」などの異名を持つ。1986年オフにFA宣言したが、年俸高騰により各球団のオーナーが示し合わせFA選手を締め出したため、どこの球団とも契約できなかった。

浪人寸前のところを1987年4月13日にヤクルトスワローズへの入団内定、背番号は「シーズン50本塁打」という期待を込めて50に決まった。ヤクルトでのデビュー戦(5月5日対阪神4回戦、神宮)の来日第3打席で仲田幸司の初球の外角低めの速球を905グラムの日本製バットで叩いて右翼ポール際へ1号2ラン本塁打。翌6日の2戦目では池田親興からなんと3本のソロ本塁打を放った。1回二死での第1打席(来日第5打席)に0ボール2ストライクでの3球目真ん中低めのスライダーを左翼へ、3回の第2打席は3ボール1ストライクから四球、5回無死での第3打席は2ボール1ストライクでの4球目内角高めの速球を左中間へ、7回無死での第4打席はフルカウントでの6球目外角高めの直球をバックスクリーン中央へ叩き込んだ。2試合目の本塁打は3本とも打った瞬間にそれと分かるものであり(3本合計の推定飛距離380m)、その際の観客の反応も大歓声というよりは、明らかに呆気にとられたような歓声と拍手が多くを占めていた。

1987.9.10 阪神vsヤクルト23回戦

当時のヤクルトスワローズは、万年最下位と言われるようなチーム状態でとても歯がゆい思いをしていた。この頃は大学二年生で札幌に住んでいたので、ヤクルトスワローズの札幌主催試合が行われた札幌円山球場には毎年のように観戦に行った。札幌ではHRを打っていなかった記憶があるが、ホーナーの打席を生で堪能できた。

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1987.6.20 ヤクルト VS 阪神入場券・表
1987.6.20 ヤクルト VS 阪神入場券・表

モー、イッポン

サントリー缶ビール ボブホーナー

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ボブ・ホーナー
ホーナーは1987年にプレーでの活躍のみならず、ヤクルト製品CMの出演料や、著書「地球の裏側にもうひとつの野球があった」の原稿料など、しめて5億円を稼いだと言われている。ヤクルトのCMでは「おなかに菌力」と日本語のセリフを放った。また、サントリー缶ビールのCMでは薬師丸ひろ子と共演している。

ボブ・ホーナーの活躍した当時は、このようなCMが作られたこともあり割と親しみを持てるキャラクターだった。1987年オフにヤクルトは翌1988年もホーナーと契約すべく、3年間で総額15億円と当時では破格の条件を提示(この年、ロッテから中日へ移籍した落合博満の年俸が1億3千万円)。ホーナー側とほぼ合意した。

ところがホーナーはヤクルトとの契約を白紙化し、ジャック・クラークをヤンキース移籍で失い、クラークに代わる四番打者の補強を急務としていたセントルイス・カージナルスと1年間総額約1億円の契約で合意し入団した。後に「日本は大嫌い。地球の裏側まで来て、ベースボールとは言えない代物をプレーしたくない。戻らなくていいのなら、いくらでもいいから契約してほしい」と代理人に泣き付いたのがその真相だったと報じられ、その侮辱的な言葉は日本プロ野球のファンや関係者に強いショックを与えた。なおホーナーは後の著書では、上記の発言はマスコミの誤報だと釈明している。また日本での生活を「とてもエキサイティングだった」という発言も残した。

1993年、ホーナーはヤクルトのユマ春季キャンプに臨時コーチとして招聘された。当時監督だった野村克也のたってのリクエストにより実現したもので、ホーナーはミーティングで「バッティングは80%が頭で決まる。データを駆使して、投手の配球を読んで打つんだ」と持論を展開した。この講義に野村は「我が意を得たり。俺と同じ考えだ」と舌を巻いたという。

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モー、イッポン
モー、イッポン

東京音頭

東京音頭 中村美律子

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東京音頭
「東京音頭」は、日本の歌。作詞西條八十、作曲中山晋平。盆踊りの定番曲として親しまれ、またプロ野球・東京ヤクルトスワローズや、プロサッカー・FC東京の応援歌として使われている。

元々は「丸の内音頭」という曲名で1932年(昭和7年)に制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。永井荷風によると、その盆踊り大会は日比谷の百貨店の広告であり、その百貨店で浴衣を購入しなければ参加できなかったという。歌詞には丸の内、三宅坂、数寄屋橋などの地名が織り込まれている。

1933年、当時の東京市民すべてが歌えるように改題・改詞され、小唄勝太郎と三島一声の歌唱でレコード化され、爆発的に流行した。勝太郎の一連のヒット曲に多いハァー(ハー小唄)の歌いだしの、勝太郎の力強い、景気のよい歌声は日本中に響き渡った。レコードの売り上げは発売当時だけで120万枚に達したという。

東京ヤクルトスワローズ ラッキー7 つば九郎 東京音頭@京セラドーム

ヤクルトの応援歌

ヤクルト チャンテ3 &東京音頭

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東京音頭の傘上げシーン
東京音頭は、プロ野球チーム・東京ヤクルトスワローズの応援歌となっている。1954年、後にスワローズ私設応援団(ツバメ軍団)団長になる岡田正泰が、巨人側の観客席は大勢のファンで盛り上がっているのに、自分たちが座った国鉄スワローズ側はガラガラ。そんな様子を見て1人最前列に下りていき歌唱応援を始めたのが最初である。現在は、得点の入った時および本拠地神宮球場で7回裏の攻撃前に、拡げたビニール傘を振って歌っている。これも1978年(当時:ヤクルトスワローズ)の優勝の前後に、当時のスワローズ私設応援団長であった岡田正泰の発案によって始まったものである。

長らく前奏部分にあわせて「くたばれ読売」と合唱されてきた。東京音頭の権利関係者からのクレームも含めて毎年かなりの数の問合せがあったが、歌詞カードに載せていないことを理由に応援団のツバメ軍団は回答をしてこなかったが、2008年シーズンよりツバメ軍団は自粛、「東京ヤクルト」への差し替えを呼びかけた。2011年以降、浸透して定着してきたというが、現在でも主にビジターファンなどが「くたばれ読売」と合唱している。

東京ヤクルト マルチテーマC

1982年以来、長らくスワローズファンですが・・・ここ最近の低迷には弱ってしまいます。今年の交流戦も6/1現在で最下位です。もっと投手陣にテコ入れして野手⇔投手のトレードを活発にしないと、せっかく12球団最強の矛を持っていても12球団最弱の盾では勝てません(>_<)

明日からヤクルトスワローズの名投手特集をします。今、この投手たちが現役で活躍していたらスワローズの歴史も変わったことでしょう。

伊藤智仁 1

1992 伊藤智仁 1 三菱自動車工業京都 都市対抗野球

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伊藤智仁
伊藤 智仁(1970年10月30日 - )は、京都府京都市中京区出身の元プロ野球選手。京都市立朱雀第一小学校、京都市立中京中学校、花園高を卒業後、地元の三菱自動車京都に入社。1992年のバルセロナオリンピック野球日本代表に選出され、1大会27奪三振のギネス記録を作るなど、日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。同年のドラフト会議ではヤクルトスワローズ、広島東洋カープ、オリックス・ブルーウェーブの3球団が1位指名、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得し入団契約を交わす。入団時の背番号は20。

1993年4月20日に先発で初登板し7回を10奪三振2失点で勝利投手となる。150km/hを超えるストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。6月9日の石川県立野球場での対巨人戦では8回まで無失点、更にセ・リーグタイ記録である16奪三振をあげるが援護もなく0-0のまま迎えた9回裏、篠塚和典にソロ本塁打を打たれサヨナラ負けを喫する。この後、悔しさのあまり自軍ベンチに向かって自分のグラブを投げ感情を露にした。なお「負け試合における」1試合16奪三振はこのケースが初めてである。この試合の他93年は12試合の先発登板の内、味方打線が1点以下しか取れない試合が実に7試合と打線の援護に恵まれない事が多かった。

だが伊藤がルーズショルダー(非外傷性肩関節不安定症)である事は首脳陣には分かっていたため、コーチ陣は故障を危惧し登板回数・投球回を減らすよう促すが、野村はその助言を聞かずそれがシーズン中盤の故障に繋がった。この事に関し、野村は監督退任後に「積極的に登板させた事によって彼の選手生命を縮めてしまった。申し訳なく思っている。」とコメントしている。7月中旬にひじ痛のため戦線離脱。シーズン終了まで復帰することはなかったが、実働3ヶ月ながら新人王を受賞。

伊藤智仁の新人時代

伊藤智仁 2

全盛期の伊藤智仁のスライダー

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伊藤 智仁
1994年から2年間、ひじ痛とルーズショルダーに悩まされ一軍登板はできなかった。1996年後半に一軍に復帰。1997年は抑えの高津臣吾が不調に陥ったため一時的に代理を務める。7勝2敗19セーブを記録しカムバック賞を受賞した。1998年から再び先発に転向する。被安打が増え6勝11敗と負け越すが防御率2.72を記録する。1999年から背番号を21に変更。登板回数は少ないものの先発ローテーションに入り安定した投球を続け好成績を残すが、ひじ痛・肩痛は癒えておらず同年オフに2度目の右肩の手術を受けている。

2001年にひじ痛・肩痛が再発、登板数も1試合に終わる。オフに再起を誓い、3度目となる右肩の手術を受ける。2002年の秋季コスモスリーグに登板するも9球目に右肩を亜脱臼しリハビリに残りシーズンを費やす。同年オフに球団から引退勧告とヤクルト本社への入社を勧められるが現役続行を志願、過去最大となる88%減の年俸で契約した。2003年10月25日、秋季コスモスリーグの対巨人戦に登板し、打者3人を相手に内野ゴロ・四球・四球という投球内容で降板。かつて150km/hオーバーを記録したストレートは109km/hにとどまった。10月29日、球団の引退勧告を受け現役引退を表明。

伊藤智仁1993年ヤクルト対巨人

高津臣吾 1

ヤクルト高津の初先発初勝利と投手時代の横浜石井琢朗

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高津臣吾
高津 臣吾(1968年11月25日 - )は、元プロ野球選手。広島県広島市南区出身。主に抑え投手として4ヶ国のプロ野球リーグで活躍し、NPB歴代2位の通算286セーブ、史上2人目となる日米通算300セーブを記録している。 2014年シーズンより東京ヤクルトスワローズ一軍投手コーチを務める。

広島県立広島工業高等学校3年の時、春夏通じて甲子園に出場したが、控え投手だったため登板機会はなく野手として出場した。亜細亜大学では小池秀郎に次ぐ2番手であった。東都大学リーグ通算40試合に登板し11勝15敗、防御率2.34、140奪三振。1990年のドラフト会議でヤクルトスワローズが3位指名で交渉権を獲得し契約金5500万円、年俸700万円で入団。

入団当時は先発投手として期待されていた。プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。1993年5月2日には松井秀喜にプロ初ホームランを献上するも、チームのリードを守り切り高津もプロ入り初セーブを記録。この年抑え投手に転向し、20セーブを挙げてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。1994年には、プロ入り初のタイトルとなる最優秀救援投手を獲得。

1997年はシーズン序盤の不調と伊藤智仁の復活と抑え転向によって中継ぎ投手として起用されるが、チームの日本一に貢献。1998年はシーズンを通じて不調で抑え投手の座を失う。1999年は監督の若松勉の就任とともに抑え投手に復帰し、最優秀救援投手のタイトルを獲得。

2001年に最優秀救援投手を獲得、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。日本シリーズでは連続無失点。2003年に佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新。最優秀救援投手を獲得。

松井秀喜vs高津臣吾 (1993年プロ入り第1号ホームラン)

高津臣吾 2

古田最後の守備 高津との黄金バッテリー

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高津臣吾
2003年オフにはFA権を行使。ジョー・アーボンを代理人とし、11月にシカゴ・ホワイトソックスと年俸75万ドルの1年契約を結ぶ。2004年4月9日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、最初の打者として松井秀喜と対戦。その後はビリー・コッチに代わりクローザーを務める。開幕から無失点を続け、6月3日のミネソタ・ツインズ戦まで24試合連続無失点を記録し、監督のオジー・ギーエンは「マリアノ・リベラでも連れてこない限り、シンゴは我々にとって最高のクローザーだ」とコメント。最終的にリリーフ投手中リーグ3位のWHIP0.98と同8位の防御率2.31を記録する投球で19セーブを記録した。10月28日には球団がオプションを行使し年俸250万ドルの1年契約を結んだ。

2006年に古田敦也が監督に就任したこともあり、入団テストを経て3年ぶりにヤクルトに復帰。シーズン当初は中継ぎを任されたが、石井弘寿、五十嵐亮太が故障離脱した後は主に抑えを務めた。10月7日の対広島戦(神宮)で日米通算300セーブを達成。このシーズン、チーム最多の13セーブを挙げた。日米合計で通算300セーブを達成した日本人選手は佐々木主浩に次いで史上2人目。

2007年は前年同様、抑え投手を任された。6月30日の対中日戦(秋田)に登板したその夜に宿舎のホテルで入浴中に足を滑らせて転倒し、左足親指を剥離骨折(全治3週間)し戦線離脱。夏場には救援失敗を繰り返し、8月半ばから再び二軍に降格。約1か月後に一軍へ復帰し抑えに復帰。最終戦翌日の10月10日、戦力外通告を受けた。現役続行の意向を表明していたものの、12球団合同トライアウトについては「自分にもプライドがあるし、考えていない」と否定し、結局2回とも参加せず獲得の連絡を待ったが獲得する球団は無かった。11月30日付で自由契約公示された。

~高津臣吾氏コーチ就任会見~

サイドスローから投げる時速140km/h前後のストレートと130km/h台、110km/h台、100km/h台の3種類のシンカーが武器。自身最大の武器である100km/h台のシンカーは、当時ヤクルトの監督を務めていた野村克也から「お前のストレートはプロでは通用しない。野球で飯を食いたければ西武の潮崎哲也のシンカーを盗め」と言われて完成させたもの。ヤクルトは日本シリーズで潮崎のシンカーに苦しめられていた。シンカーの速度がアメリカの他の選手の投げるものより数段遅いため、解説者からはチェンジアップと呼ばれていた。日本では投球のほとんどがストレートとシンカーのみであったが、メジャーではカーブも投げるようになった。

登板時、得点圏までランナーをためるが後続をしっかり抑える投球スタイルは「高津劇場」と呼ばれた。

日本シリーズでの通算8セーブ、10セーブポイントは日本記録である。また、日本シリーズでは通算11試合に登板して無失点である。ホワイトソックス移籍後も24試合連続無失点を記録したこともあり、Mr. Zeroと呼ばれた。このような投球スタイルから、ホワイトソックス時代には、USセルラー・フィールドに「It's SHIGO TIME!」の表示が灯った。

2013年10月23日、2014年より一軍投手コーチとして東京ヤクルトスワローズに復帰することが発表された。

金田正一 1

金田正一

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金田正一
金田 正一(1933年8月1日 - )は、愛知県中島郡平和村(現在の稲沢市)出身の元プロ野球選手(投手)・監督、野球解説者・評論家、実業家、タレント。血液型はB型。日本プロ野球史上唯一の通算400勝を達成、298敗の最多敗戦記録を持つ。引退後は、ロッテオリオンズの監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。

愛称は「カネヤン」「カネさん」。少年時代のあだ名は、その長身から「電柱」、「割り箸」など。プロ入り後は「巨人キラー」や「天皇」などと言われることもあった。現役時代は主に国鉄スワローズで活躍し、日本球界唯一の400勝投手となった。引退後はロッテオリオンズの監督を務めた。現在は野球評論家、千葉ロッテマリーンズ取締役。2009年12月3日まで日本プロ野球名球会会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。2009年11月までは、経営する自身の個人事務所株式会社カネダ企画内に名球会事務局が置かれていた。

1933年、在日朝鮮人の子金慶弘(キム・ギョンホン、김경홍)として愛知県に生まれる。1959年、日本に帰化。名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、機械いじりが好きだったことから名古屋電気学校(現・愛工大名電高校)に入学したが、1年の途中で野球の強豪校・享栄商業高校(現・享栄高校)に転校した。野球部長で監督の芝茂夫とここで出会った。金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している。コントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となり、1950年3月、2年生の時点で国鉄スワローズ監督西垣徳雄にスカウトされる。享栄商業のエースとして甲子園を目指したが、1950年夏の予選で敗退するとすぐに高校を中退、シーズン途中に国鉄スワローズ(現・東京ヤクルト)に入団した。

金田正一、ルーキー長島を4連続三振

1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。登板の前日に下痢を発症して体調を崩した中での記録達成であった。しかも達成直前の9回一死で酒井敏明のハーフスイングの判定を巡って中日が猛抗議し、43分間の中断があったが金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共に全て空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。再開時にベンチを出る際、金田はチームメイトに「あと6球で終わりや、帰り支度しといてや」と豪語したという。

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長嶋茂雄デビュー戦を4打席4三振に封じ込めたと報じる新聞記事
長嶋茂雄デビュー戦を4打席4三振に封じ込めたと報じる新聞記事

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長嶋茂雄
1958年4月5日の開幕戦(対巨人、後楽園球場)では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。しかし、結果4連続三振を奪ったものの、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と述べている。初対決で金田から4打席4三振を喫した長嶋は「カーブのキレがよく、特にドロップに手が出なかった。さすが金田さんだ。」と感想を残した。

次の対戦でも最初の打席で三振を奪い、長嶋のデビューから対戦5打席連続で三振に仕留めた。長嶋対金田の対戦は1964年までの7年間で打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打った打者となっている。翌年は王貞治が入団し、1959年4月11日の開幕戦で対戦、2打数2三振を奪っている。

ルーキー長嶋vs金田

金田正一 2

国鉄・金田正一 1962年9月5日 通算3509奪三振の世界記録達成

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金田正一
1958年6月5日、通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。6月12日には、開幕よりわずか70日の51試合目でシーズン20勝目を挙げた。いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(他に13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、64回1/3連続無失点の日本記録もこの間に記録している。

1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。対巨人戦通算65勝は歴代1位。国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に対巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている。国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝。対巨人戦では通算72敗を喫し、負け越している。

1965年、B級10年選手制度を行使して巨人に移籍。金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年に産経新聞社とフジテレビが球団経営に参加した時に遡る。この時の産経・フジのやり方に反発し、この年の移籍につながったと言われている。国鉄は1965年5月10日付で産経・フジに球団を売却し経営から離れた。

金田の巨人入団には、巨人ナインも金田に見習ってほしいという監督・川上哲治の思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績はわずか47勝しかないが、選手の意識改革を促しチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、あえて日本シリーズ第1戦先発に何度も送り出した。公式戦の開幕投手も5年間で4回任されている。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を活かしたい川上の思いに、金田も見事に応えて好投した。そんな金田も、ある試合で本塁打を打った長嶋の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えたところ、チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられた。国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。

チョーヤ 梅酒 金田正一 CM

1969年10月10日、対中日戦で球界初の通算400勝を達成。同年限りで現役を引退した。巨人での背番号34は永久欠番に指定された。金田は当初は引退するつもりがなかったが、石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原の「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに最終的には引退を受け入れたという。

引退後は巨人OBであることを公言しており、解説者を務めていた頃は巨人寄りの発言が多かった。2007年6月11日、巨人V9時代のメンバーとして始球式に参加している。同時に、国鉄OBであることも公言している。国鉄分割民営化の際に新聞に寄せたコメントの中では、労使が一体となって応援していたことを懐かしんでいた。2001年に開かれた長谷川良平の野球殿堂入りを記念する祝賀会では「俺のふるさと国鉄スワローズはもうない。今でもカープファンの中にいられる長谷川がうらやましい」と、国鉄スワローズに対する思いを吐露していた。OBのオールスターゲームに参加した際は、巨人のユニフォームと国鉄のユニフォームの両方を着用したが、長嶋茂雄が参加した場合は国鉄のユニフォームを着ることが多かった。「国鉄スワローズというチームはもうなくなったから」との理由から、国鉄の後身であるヤクルトと関わりを持つことは少なかった。

松岡 弘

1982 松岡弘

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松岡 弘
松岡 弘(1947年7月26日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手・野球指導者。ヤクルト一筋の選手で初優勝・日本一に貢献した大エースだった。

1967年にドラフト5位でサンケイアトムズ(現:東京ヤクルトスワローズ)の指名を受けるも、4位までの選手の入団が決まったことを理由に契約見送りとなる。これに奮起して三菱重工水島で快投を重ね、チームの1968年都市対抗初出場の原動力となる。同大会では1回戦で日本鋼管の高橋直樹と投げ合い、1-0で惜敗。これでサンケイ側も認識を改め、頭を下げたことから1968年8月に入団。

1969年から先発ローテーションに定着し、1971年に三原脩が監督に就任したが就任オープン戦から松岡を起用し続け開幕投手に指名、この年プロ入り初の2桁勝利(14勝)挙げ、1972年は17勝、1973年は21勝を挙げる。松岡は「三原さんを筆頭に、チームで僕を柱に育ててくれて、やっぱり期待に応じようとして、僕も精神的ににも強くなれたかな。」と語っている。チームは1973年までBクラスと低迷していた。

1982 松岡弘 2

1978年は16勝を挙げ、球団史上初のリーグ優勝、日本一に貢献。阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、勝ち試合4試合全てで登板した。同年、沢村賞を受賞。1980年は最優秀防御率(2.35)のタイトルを獲得。

1983年のシーズン終了時点で通算190勝であり、200勝達成・名球会入りまであとわずか(同年まで13年連続シーズン9勝以上を挙げていた)だったが、同年オフに首を痛め、1984年から1985年の2年間はわずか1勝に終わり、あと9勝及ばずに1985年限りでの現役引退となった。

現役時代の背番号17は、「ヤクルトのエースナンバー」として、松岡の引退後に先発型右腕の川崎憲次郎や川島亮に引き継がれている。

とびだせヤクルトスワローズ

とびだせヤクルトスワローズ

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とびだせヤクルトスワローズ
とびだせヤクルトスワローズは、日本のプロ野球チーム・東京ヤクルトスワローズの初代の球団歌・応援歌だった。1975年発表・リリース。発売元は東芝EMI。

前々年11月に愛称を「アトムズ」から国鉄時代の「スワローズ」に戻したヤクルト球団公認による球団歌で、歌唱力では球界随一と言われている当時の同球団エースピッチャー・松岡弘の歌唱により吹き込まれた。1番に他のセ・リーグ5球団を倒す、という内容の歌詞が含まれている。尚、その後リリースされた「新・とびだせヤクルトスワローズ」と題された新しいバージョンでは1993年には横浜大洋ホエールズ(1977年までは大洋ホエールズ)に相当する箇所が横浜ベイスターズ→横浜DeNAベイスターズへの球団名変更に伴い改変されている。

現在は東京ヤクルトスワローズの試合では林田健司作詞・作曲の「We Are The Swallows」が球団歌として流れており、この「とびだせ~」は流されていない。応援団により、8回裏ないし8・9回表のスワローズ攻撃前に本楽曲がトランペットで演奏される。

東京ヤクルト 応援歌  飛び出せヤクルトスワローズ

ぐりとぐら

ぐりとぐら

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ぐりとぐら
『ぐりとぐら』は、中川李枝子(作)・山脇百合子(絵)による子供向け絵本のシリーズ。双子の野ねずみ、「ぐり」と「ぐら」を主人公とする物語。

『母の友』1963年6月号に掲載した幼児向け読み物『たまご』を原作として、同年12月1日に『こどものとも』93号で『ぐりとぐら』の標題で発表した。既に『いやいやえん』で名声を確立していた中川・山脇姉妹による初めての絵本作品は評判になり、たちまちベストセラーとなった。それ以来、世代を越えて世界各国で親しまれている。1967年の英語版が最初の翻訳本である。1999年までに英語、デンマーク語、エスペラント、中国語、朝鮮語、フランス語、タイ語、オランダ語、クメール語の9つの言語に翻訳された。2001年にはスペイン語訳も出ている。

2009年現在、日本では福音館書店から単行本が出版されている。シリーズ累計発行部数は2,000万部を超える。
第一作となる『ぐりとぐら』は、二匹が見つけた大きなたまごから、大きなカステラを作るというストーリーである。

「ぐり」と「ぐら」は服の色が赤・青で異なり、帽子の形が少しだけ違うという以外は、外見上はほとんど見分けがつかない。タイトルは『ぐりぐら』のように「ぐり」を青文字で、「ぐら」を赤文字で表記する。

ぐりとぐらの考察

子育てテレビ 「絵本紹介」

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ぐりとぐら
ひょんなことからぐりとぐらを思い出しました。小さい頃は、この絵本のお世話になったものです。今でも実家には、ぐりとぐらの絵本が置いてあるはず…

『ぐりとぐら』から学んだことは、まず自分が楽しまないと周りの人を楽しませることは出来ないということ。そして何の変哲もない日常に不満があるなら、自分で楽しいことを見つければ良い。ぐりとぐらのように自分自身の中で常に好奇心を爆発させれば良い。その爆発によって飛び散った好奇心が日常を冒険に変えて楽しい物語を生む。大人になって『ぐりとぐら』を読み返すと、そこに人生を楽しむための重要な方法が描かれていた。『ぐりとぐら』は、身をもって教えてくれた。

例えばぐりが悲観的に物事を捉えるタイプで、ぐらが面倒臭がりなタイプだとしたら……。大きなタマゴを発見しても、ぐりは「このタマゴから狂暴なバケモノが生まれて世界が終わってしまう!」と想像して逃げたかもしれない。ぐらは「こんな大きなタマゴを運ぶのは無理だし疲れる。調理するにしても労力が掛かりすぎる」と想像して逃げてしまったかもしれない。

二匹は家に帰り、何事も起こらない日常を過ごしたかもしれない。平穏であることも素晴らしい幸せだが、例え悲観的であったとしても、面倒だったとしても、たまにはぐりとぐらのように好奇心と言うアンテナを張ってあらゆることに興味を持ち、前向きに面白いことを探しに行くことが人生を楽しく生きる秘訣だと思う。

今もって実践出来ていないので、充分なお金が入ったら色々と遠出をしてみたいと思います。

ぐりとぐら

ぐりとぐら展

はなナビ!:ぐりとぐら展に行ってきた♡

・・・ぐりとぐらが50周年で記念展示をやっていたことすら知りませんでした。地方ではこれから展示が行われますが、首都圏での開催は終わってしまいました。残念です(>_<)

松屋銀座 誕生50周年記念 ぐりとぐら展

松屋銀座 誕生50周年記念 ぐりとぐら展

東京ダイナマイト

東京ダイナマイト ぐりとぐら

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東京ダイナマイト
東京ダイナマイトは、日本のお笑いコンビ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。1990年代中頃に、ハチミツ二郎と曽根卍(そねまんじ)で結成。2001年に、二代目としてハチミツ二郎が松田大輔と再結成した。コントもするが、主に松田のシュールなボケにハチミツがクールなツッコミを入れる形式の漫才をする。

ハチミツ二郎が20歳の頃、パチンコ店で店員をしていた曽根卍と知り合い、初代「東京ダイナマイト」を結成。新宿ラ・ママのオーディションで初舞台を踏む。1997年10月、浅草キッド主催のライブ、浅草お兄さん会で優勝。その後も浅草お兄さん会と大川興業主催のライブ「すっとこどっこい」にレギュラー出演。しかし、ハチミツが社長を務めていたインディーズのお笑い事務所「トンパチ・プロ」の低迷期に初代は解散した。

新しい相方を探していたハチミツが、元「温泉こんにゃくアクロバットショー」の松田と知り合い、松田が以前より「ハチミツとコンビを組みたい」と考えていたことから意気投合。「トンパチプロ」の解散宣言と同時にコンビ結成を発表し、2001年、新生「東京ダイナマイト」がスタートした。それに伴いマネージメントがオフィス北野預かりとなり、これと前後して浅草キッドと師弟関係を結んだ。

コンビ名は、ニューロティカの楽曲『東京DYNAMITE』からとったものである。オフィス北野所属のタレントにはビートたけしが芸名をつけることが多いが、たけしはその場の気分でふざけた名前をつけることも多いため、「ひどい名前をつけられたらたまんないから」と自分たちで勝手につけた名前らしい。

「同業者向けにネタを作っている」と公言しており、世間的な評価よりも芸人間での人気や評価が高いコンビでもある。「東京ダイナマイトのネタを袖で見ている芸人は売れる」というジンクスまであり、2007年にサンドウィッチマンが、2009年にパンクブーブーがM-1グランプリで優勝しそれを実証することになる(両者とも東京ダイナマイトの袖芸人)。
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