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Channel: スチャラカでスーダラな日々
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全員集合エンディング

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8時だよ!全員集合 ED

全員集合 EDエンディングテーマは「ドリフのビバノン音頭」(ザ・ドリフターズの「いい湯だな」の替え歌)。中間部分にある「はぁビバノンノン」の部分は加藤がゲストの一人にマイクを振りそのゲストが歌う。生放送ゆえ番組の残り時間次第でペースが少なからず変化する。時間が押してるときはタイムキーパーの(巻け)サインがもの凄く速かったとのちに加藤が他の番組でエピソードを語っていた。高木は『ダウンタウンDX』の中でエンディングのペースは5パターンあった事を打ち明けている(ちなみにオープニングのペースも同様5パターン用意されていた。3コーラス時代:1分40秒、1分20秒 2コーラス時代:1分10秒、1分5秒 1コーラス時代:40秒など)。

テレビの画面では2コーラス目の演奏中に翌週のゲストを紹介するテロップが出る。エンディング曲の終盤に加藤の「風邪ひくなよ」「お風呂入れよ」「宿題やれよ」「歯磨けよ」など、主に子供たちに向けた色々な掛け声が入り、最後は「また来週!!」で番組が終了した(年内最後の放送は「餅食い過ぎるなよ」「また来年!!」。最終回は「長い間ありがとう!!」)。特に「歯磨けよ」「お風呂入れよ」は、初回から最終回まで一貫した筆頭スポンサーであるライオン(1979年12月以前は、ライオン歯磨とライオン油脂の2社に分かれていた)にも配慮した内容だと思われる。

8時

ドリフ最終回

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ドリフ最終回

志村けん初登場8時だョ!全員集合は1981年春に幕を開けたフジテレビの裏番組『オレたちひょうきん族』の台頭により、1982年中頃から番組人気に陰りが見え始め、1982年10月2日の放送回で初めて『オレたちひょうきん族』に視聴率を抜かれた。これ以降は視聴率争いに苦戦し、1983年8月13日に視聴率で初の1桁(9.2%)を喫した。以降は視聴率が10%後半くらいが平均となり、1985年に入ってから後塵を拝した。そして遂に土曜20時台枠の抜本的な見直しにより、1985年9月28日に16年の歴史に幕を閉じた。TBSは1985年7月19日の打ち切り発表の中で、「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」ことを理由に挙げた。

荒井注は、1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフを脱退。脱退宣言の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書にも記述されているように、すわしんじ(現:すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なす解釈もある。いかりや没後には新メンバーを加入させる予定はなく、現在4人の構成となっている。

いかりやの著書によれば、いかりやは自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続することを計画していた。

2004年3月20日 いかりや長介逝去のニュース

6人ドリフ

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ザ・ドリフターズ 荒井注さん、志村さん入れて6人でのコント!!

6人ドリフ荒井注のコントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、シカトし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」というパターンが人気を博した。「なんだ、バカヤロー!」と「This is a pen!」のギャグはよく知れ渡っている。

1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフを脱退。当初は芸能界引退を示唆していたにも関わらず、半年後にはドラマなどで復帰したため、ドリフメンバーから反感を買うこととなり、和解までには3年間を要したという。その後ゲスト出演した「ドリフ大爆笑」で放送されたドリフの歴史を面白可笑しく紹介するコント(保存版・ドリフの隠された秘密)ではいかりやが、荒井脱退の理由を「陰険な性格とふてぶてしい態度がメンバー全員の反感を買って、永久追放の憂き目に遭う」と紹介し、完全にネタにされていた。

FUJICOLOR 2000 TVCM

荒井が亡くなる直前の2000年の正月放送の「フジカラー・フィルム」のCM撮りで6人ドリフとして14年3カ月ぶりの全員集合となり、大きな話題となった。七福神をモチーフとしたもの。結局これが彼ら6人が勢揃いした最後の映像となった。

夢の競演

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加藤茶&植木等 夢の競演

加藤茶&植木等 夢の競演ザ・ドリフターズはいかりや長介が正式リーダーになった1964年のドリフ再結成以降が知られているが、結成はそれ以前1956年頃(クレージーキャッツと僅かに後輩)。結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは音楽バンドとして活動。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれコミックソング、コントやギャグが主体となった。

新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー・ハナ肇で、アメリカの黒人コーラス・グループのドリフターズから拝借し命名。ドリフのメンバーにしてみると、ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたが、逆にインパクトがあり、今でも各人の名が覚えられる結果となった。なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決めた。

クレージーキャッツ ドリフ

我が心の師、植木等先生が2007年3月27日に亡くなってから早や7周忌となりました。
しばらくの間、毎年恒例の植木等特集をやります。

クレージーとタモリ

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クレージーキャッツ タモリ (1/2)
YouTubeのコメントを抜粋
クレージーとタモリクレイジーキャッツの面々のフリが何気にハードル高い。それを見事にさばいていくタモリ。双方とも相当なインテリジェンスがないとこの掛け合いはできない。

本当にタモさん試されていますね~「コイツどんなもんだろ」って感じ。しかし見事に切り返した。他の人ならとっくに自滅してる。これ観て、タモさんは改めてウデとハートのある芸人だと思いました。

傑出したトロンボーン奏者谷啓さん、ピアノの先生桜井さん… 本当に多彩な方々でした。これが本当のプロだ。 今アーチストと言われる人たちには引き出しの中身がほとんどない。

クレージーキャッツ タモリ (2/2)

8時だョ!出発進行

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8時だョ!出発進行 OP (1971)

8時だョ!出発進行『8時だョ!出発進行』は、1971年4月3日から同年9月25日までTBS系列局で放送されたバラエティ番組。放送時間は毎週土曜 20:00 - 20:56

『8時だョ!全員集合』に出演していたザ・ドリフターズが、日本テレビ系の『日曜日だョ!ドリフターズ!!』に出演することとなり、半年間番組を休止することとなったため、その間のつなぎ番組として制作するということが挙げられている。これはTBSの方針ではなく、クレージーキャッツ・ドリフターズ双方が所属する事務所・渡辺プロの意向によるものであったとされている。

日本テレビが強力にドリフのブッキングを渡辺プロに要求したこと、そして渡辺プロ側もクレージーキャッツをグループとしてもう一度位置付け、ドリフターズと二枚看板(正確には当時活動中であったザ・ピーナッツと合わせた三枚看板)としたかった事が背景にあったからである。渡辺プロも当時の社長渡辺晋が直接TBS側に「ドリフは半年間だけだ」と宣言している。

この渡辺プロ側の一見居丈高にも思える態度に、TBSでは一時渡辺プロ所属のタレントを今後一切締め出すべきという強硬論が全社内で上がるほど感情的になっていたというが、最終的には当時の編成局長の冷静な判断により番組プロデューサーの居作昌果に対応が任され、この要求を呑んで当番組の制作に同意したことで収束した。なお、当番組の制作には居作をはじめとする『全員集合』のスタッフ全員がそっくりそのまま関わった。

しかし、ブッキングした張本人の日本テレビ側が仕掛けやバンドなどで大幅な費用を使うためにドリフのコントを嫌うようになり、結局約束の半年間で『日曜日だョ!ドリフターズ!!』は終了、ドリフは『全員集合』に戻ることになり、当番組はその役割を無事に全うする形で終了した。

他には『シャボン玉ホリデー』で一躍渡辺プロをお茶の間に広めた日本テレビに対する恩返しとして、ドリフを日本テレビに渡したという説もある。

ただし「番組の人気が出ずに視聴率が全然伸びないため終了した」とする説は誤りで、居作は当番組について、「土曜8時という激戦区で、しかも4月から9月というジャイアンツ・ナイターがあるシーズンの6か月間、平均視聴率15%と健闘した」「映画やテレビドラマの主役ばかりをやっていた植木等が、この番組のために汗まみれ、泥まみれになって仕事をしてくれたことに今でも頭が下がる思いがする」と述懐している。

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植木等の世界

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クレージーキャッツ メドレー

クレージーキャッツクレージーは多数のコミックソングを世に送り出している。グループ名義の楽曲は、大半は植木の独唱であるが、サビの部分のみメンバー全員で合唱する場合もある。デビューシングルの「こりゃシャクだった」にはメンバーによる寸劇が挿入されている。「五万節」「ホンダラ行進曲」」「悲しきわがこころ」「新五万節」は植木を含む全メンバーが1コーラスずつ歌っている。また「実年行進曲」は全員の合唱・谷・ハナ・植木の順で1コーラスを4小節ずつ歌い継ぐ構成になっている。

なお、無名時代からクレージーファンで、一時期はクレージーのブレーン役でもあった小林信彦は、「クレージーで一番面白いのは『生』、次が『テレビ』、一番面白くないのが『映画』」と語っている。

「この際カアちゃんと別れよう」というオリジナル曲もあるが、実際のメンバーは全員良き家庭人であり、スキャンダルや人格批判にはほとんど無縁というグループでもあった。

著名なファンに「実年行進曲」を作曲した大瀧詠一とメンバーの植木等とドラマで共演したこともある所ジョージがいる。声優の関智一、シンガーソングライターの星野源(SAKEROCK)も好きな音楽にクレージーキャッツを挙げる。

植木等の世界

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シャボン玉ホリデー OP&ED

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Syabondama holiday OP&ED 1965

植木等とザ・ピーナッツシャボン玉ホリデーは、オープニング直後にクレージーの誰かとピーナッツがやり取りした後、牛乳石鹸製品の紹介ナレーションをする物と、番組中のコントに突然ピーナッツが現れて、生CMへいく物が有る。牛乳石鹸製品は、OP後ではシャンプーやシェービング製品、ED前では主力商品の「赤箱」が多かった。

エンディングは、街灯とベンチが置かれている暗いスタジオでピーナッツがエンディングテーマ「スターダスト」を歌っているとハナ(それ以外の時も有り)が現れ、この回のまとめを述べる。その後ピーナッツに暴言を吐き、ピーナッツから肘鉄を食らって去り、ピーナッツもフレームアウトする。

タニーケイだよピーナッツ(谷啓)

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楽器で遊ぼうピーナッツ

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シャボン玉ホリデー No.209 Vol.1

楽器で遊ぼうピーナッツ1964年8月23日放送 NTV シャボン玉ホリデー No.209 「楽器で遊ぼうピーナッツ」は、シャボン玉ホリデー第1期レギュラー放送終了後に現存する映像10本のうちの1本である。

ジャズ演奏家・評論家でシャボン玉ホリデーの司会者だった小島正雄は放送の4年後、1968年1月20日に心筋梗塞のため54歳の若さで急死した。小島正雄は東京生まれで早稲田大学卒業後、1941年(昭和16年)にNHKに就職。翌年召集され、1947年(昭和22年)に復員後、戦後再結成した名門ジャズバンドであるブルー・コーツのバンドマスターとして活躍。また、日本を代表するコーラスグループであるダークダックス、ボニージャックス、スリー・グレイセス等の育ての親である。

シャボン玉ホリデー No.209 Vol.2

One O'Clock Jump

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シャボン玉ホリディー ワン・オクロック・ジャンプ

One O'Clock Jumpカウント・ベーシー楽団は、ワン・オクロック・ジャンプを中西部からニューヨークに持ち込んで人気を博した。地方で活動し続けた楽団には更にジャンプ感覚を強調したものもあり、それらが40年代半ばにリズム・アンド・ブルースを生む基盤となった。このように、R&Bの先駆けとも言えるシーンがシャボン玉ホリディーで放送されていた。

シャボン玉ホリディーならではのワン・オクロック・ジャンプ。非常にレベルが高く見応えがある。こんな贅沢なショーは、今の日本では残念ながら見られない。

炭坑節/フランキー堺&シティー・スリッカーズ ソロで歌っているのは植木等

植木等ショー

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Rhapsody in Blue 01 クレイジー・キャッツ (植木等ショー 1967年12月28日放送)

植木等ショー『植木等ショー』は、1967年から1968年までTBS系列局で放送されたTBS製作の公開バラエティ番組。全51回。植木等初の冠番組・ワンマンショーである。1967年7月6日から1968年1月11日まで放送されて半年間の中断期間を経た後、同年7月4日から12月26日まで放送された。放送時間は第1期・第2期ともに毎週木曜 21:00 - 21:30 (JST) 。

後の2007年4月1日に同系列局で放送された植木の追悼特番では、TBSのライブラリーに残っていたこの番組の貴重な映像が公開された。

1995年にビデオとレーザーディスクで発売(2007年にDVDで再発売)された『クレージーキャッツ メモリアル』には、1967年12月28日放送分(東京交響楽団・クレージーキャッツゲストでラプソディー・イン・ブルーを用いた音楽コントが行われた)が収録されている。
2010年11月3日、植木が個人で所有していたフィルムから17本分が発掘され(2007年の追悼番組もこのフィルムをTBSがバックアップしたものから放送)、『植木等スーダラBOX』として発売された。内容は、17本分の映像の中から1967年12月28日放送分・1968年9月26日放送分・1968年11月21日放送分を全編収録し、その他の回から歌・コントをより抜き収録している。また、ハナ肇所有のビデオテープから発掘された『8時だョ!出発進行』の貴重な映像も同時収録している。

Rhapsody in Blue 02 クレイジー・キャッツ (植木等ショー 1967年12月28日放送)

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ニッポン無責任時代

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ニッポン無責任時代

ニッポン無責任時代ニッポン無責任時代は東宝が1962年に製作した映画で、クレージー映画の記念すべき第1作。当時『シャボン玉ホリデー』で人気を上げたクレージーをメインに、お姐ちゃんトリオ(中島そのみ、重山規子、団令子)を絡ませた作品だったが、予想外の好評となり、1971年公開の『日本一のショック男』まで30作が制作された。

主役を演じる植木等は、元々僧侶の家庭に育ち、主人公の無責任男とは正反対の人柄であり、当初この役に反発して、古澤宅に押しかけ降板を申し出ようとしたが、古澤のキャラクターにかける意気込みと、古澤が植木のまだ隠れている才能を見抜いていることに感服し、古澤に全てを任せようと決意したという。

『ニッポン無責任時代』は1962年7月29日に封切られ、ミュージカルありコメディありの作品はこの年の夏の興行収入トップに躍り出る大ヒット作となった。植木等、クレージーキャッツ、古澤憲吾の名前は、従来あり得なかったお洒落でポップなタッチで現実を切り取る表現するスターとして認知されるようになり、日本一シリーズ、クレージーシリーズと映画の醍醐味を追求するシリーズ映画へと発展していくことになった。

植木等無責任一代男は1962年7月20日に発売されたハナ肇とクレージーキャッツ3枚目のシングル。歌は植木等、作詞は青島幸男、作曲は萩原哲晶。

東宝クレージー映画第1作「ニッポン無責任時代」の主題歌として作られたこの歌は、映画と共に大ヒットした。ヒットの理由について青島は、「大人たちの不誠実さも反吐が出るほど見せられてきた戦後の若い世代には、この唄は我が意を得たとばかり受け入れられたに違いない」と分析している。これ以降、植木はこの曲の「こつこつやる奴ぁ、ご苦労さん!」というフレーズと共に「無責任男」というイメージが定着することになる。

この曲を「名作」と評している小林信彦は、「シャボン玉ホリデー」において初めてこの歌を聞いたときの「ショックを忘れることができない」と回想している。

青島によると、「タモリはこの歌を座右の銘にし、ビートたけしはこの歌で人生観を変えられた」らしい。つまり、そのくらい強烈なインパクトを「戦後ベビーブーマーの男たち」に与えたという。

ニッポン無責任野郎

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ニッポン無責任野郎

ニッポン無責任野郎ニッポン無責任野郎は、1962年12月23日に公開された日本映画。東宝クレージー映画第2作にして、初の正月映画となった。前作である『ニッポン無責任時代』のヒットをうけて作られた姉妹篇であり、『~時代』の主人公である「平均(たいらひとし)」も姿を現す。

自由ヶ丘を歩いていた失業中の無責任男・源等は、道で出会った長谷川武という男からタバコの火を借りるが、この長谷川からある事を聞かされる。彼が営業部長として務めている楽器会社「明音楽器」では、近々宮前社長が引退する事になり、王仁専務と幕田常務が後釜を狙って派閥闘争が繰り広げられているのだ。それを知った等はチャンスとばかりに王仁家と幕田家に行き、専務と常務に「明音楽器はあなたの物です」とおだてて入社に成功した。

やがて同僚であるOL・丸山英子の預金を見た等は、英子に「俺は1円玉を預金して、100万円貯めているんだ」とホラを吹いて、結婚を申し込む。ガッチリ屋の英子も喜んで、見事に結婚。結婚式は1000円会費で、等と英子は式そこのけで金儲け、旅行は観光旅行に紛れ込む有り様。そして等は長谷川に惚れているバーのマダム・静子、王仁の恋人・マダム満江、宮前のお目当て芸者・初太郎のハートを捕らえ、しまいには同僚の中込と厚子の中を取り持つ調子良さ。

やがて等は未収金の取り立てに回されるが、取り立てた500万円を自分名義で預金し、利子で大儲け、そして等はサックス奏者のゲーリーを利用して、「今度アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国のスミス楽器の御曹司が来日し、技術提携をしたいと言うんだ」と言ってゲーリーを紹介。王仁と幕田は二人に口車に乗せられて、リベートしまくる。ここまでは上手くやってきた等だったが、世の中そんなに甘くない。あっさりゲーリーの正体がバレ、おまけに等の取り立て預金までバレてしまい、とうとう等は首に。ならばとばかり会社を去る等。

だがこれで王仁と幕田は、等が二人の間を行き来していた事を知り、宮前からも責任を取らされて「社長失格」とされ、明音楽器は「北海物産」の子会社に。そして「北海物産」社長・平均がやって来たその日、見覚えのある者が付いて来た。なんとあの源等だ!! 等は平均に気に入られ、社長秘書になったのだ!!

「無責任一代男」植木等

日本一のホラ吹き男

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日本一のホラ吹き男

日本一のホラ吹き男日本一のホラ吹き男は、1964年公開の東宝映画。植木等主演の「日本一の男」シリーズ第2作である。本編の大部分は現代劇だが、主人公の先祖が活躍するシーンは時代劇仕立てとなっている。

西北大学の学生、初等(はじめ・ひとし)は三段跳の選手で1964年東京オリンピックの候補だった。ところが、練習中に誤ってアキレス腱を切ってしまい、出場を断念。療養の為に故郷に帰った等は、偶然にも「ホラ吹き」と呼ばれ続けた先祖・初等之助の自伝を発見する。一浪人に過ぎなかった等ノ助は大胆にも大名になることを決意し、ホラ吹きと揶揄されながらも徐々にその腕を認められついに2万石の大名となったのだ。

「ホラにしてホラにあらず」この言葉に感銘を受けた等は気持ちを新たにし、大企業の増益電気に就職して出世の三段跳びをすると宣言する。しかし面接試験であっけなく落とされてしまうのだった。一計を案じた彼が取った行動は…。

東京オリンピック音頭 植木等

日本一の男の中の男

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日本一の男の中の男

日本一の男の中の男日本一の男の中の男は、1967年12月31日に東宝系で公開された日本映画。カラー。シネマスコープ。東宝・渡辺プロ作品。

植木等主演の「日本一シリーズ」第5作目にして、シリーズ初の正月映画。本作では植木扮する「小野子等」(おのこ ひとし)が、ふとした事から造船会社からストッキング会社に回されるが、そこでも様々なアイデアを駆使して大活躍するといった内容となっている。

クレージーからの助演は谷啓のみと少ないが、ヒロインはそれまでの浜美枝に代わって、日活の浅丘ルリ子が担当、その他の共演者は常連・人見明を始め、水谷良重、後に『社長シリーズ』『若大将シリーズ(社会人編)』に出演する藤岡琢也、浅丘と同じく日活育ちの岡田眞澄、そして久美かおりらが所属する“メイツガールズ”などである。

脚本:笠原良三、監督:古澤憲吾による「日本一シリーズ」は本作までで、次作『日本一の裏切り男』からはキャラや内容を一新した展開となる。

ハイそれまでョ

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植木等 "ハイそれまでョ"

ハイそれまでョ
ハイそれまでョ

この唄は植木等が歌うものの中でも一番好きな歌です。強烈な皮肉と男の哀愁が漂う歌です。

★カラオケ「ハイそれまでョ」(ハナ肇とクレイジー・キャッツ)
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