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ロスビー波

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北半球のジェット気流の蛇行が発達(a、b)は、最後に冷たい空気(C)の「ドロップ」を取り外す。オレンジ:空気の暖かい塊、ピンク:ジェットストリーム。
北半球のジェット気流の蛇行が発達(a、b)は、最後に冷たい空気(C)の「ドロップ」を取り外す。
オレンジ:空気の暖かい塊、ピンク:ジェットストリーム。

大気中のロスビー波(Rossby wave)は、大陸・海洋の温度差や地形の高低差などによって大気が揺すぶられて生じる自由振動の波の一つで、地球大気、惑星大気で見られる大気波である。また、ロスビー波はベータ効果を復元力とする波である。カール=グスタフ・ロスビーによって発見された事からこの名がある。

惑星の自転に伴う回転がある緯度に及ぼす効果(惑星渦度)が北ほど大きく(北極で最大値、南極で最小値、赤道上で0)、低気圧の西側では北から南に大きな低気圧性の惑星渦度が、東側では南から北に小さな惑星渦度が運ばれてくるため、ロスビー波の位相が西にずれ、東西方向へは位相が西に伝播する。

ロスビー波のエネルギーの伝播に伴い、高低気圧のパターンが交互に見られる。このパターンはテレコネクションとしても知られる。

チベット高原・ヒマラヤ山脈やロッキー山脈などの大規模山塊で強制されて生じたロスビー波によって中緯度の大気の流れが変わり、ストームトラックの分布に影響する。また、大規模山塊で強制されて生じたロスビー波のエネルギーは鉛直にも伝播するという特徴を持っているため、対流圏から成層圏に伝播し、成層圏で砕波して成層圏突然昇温の引き金となると考えられている。

海洋においては、海岸付近など海底に勾配が見られる場合、これがベータ効果の役割を果たす。このため、等深線に沿ったロスビー波が存在し、深度の低い方を右手側に見るように進行する。特に、海岸付近のロスビー波は、陸棚波(continental shelf wave)と呼ばれ、水位の昇降として観測される。

Jennifer Francis - Understanding the Jetstream - m

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オゾン層の形成

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オゾン層は、46億年前に地球が誕生した当初から存在したわけではない。誕生当初の地球の原始大気は、主に二酸化炭素からなり、酸素分子はほとんど存在しなかったため、オゾンもほとんど存在しなかった。大気中に酸素分子が増え始めたと同時に、オゾンも増え始めたと考えられている。

原始大気には紫外線を吸収する物質が無いため、地上まで強い紫外線が降り注いでいたが、酸素濃度が上昇するとオゾンが増えて、地上に降り注ぐ紫外線の量は急速に減少していった。しかし当時、オゾン濃度が高いオゾン層が存在したのは、成層圏ではなく地上付近であった。これは、酸素濃度が薄いため、酸素を光解離させる紫外線が地上近くまで届くからである。酸素濃度が上がると同時に、紫外線の到達できる限界高度が高くなり、これに伴いオゾン層も上空へと移っていった。

原始大気では、酸素濃度の上昇ペースに比べて、オゾン濃度の上昇ペースの方が非常に大きかった。例えば、酸素が現在の100分の1と薄かった20億年前の大気でも、オゾンは現在の5分の1であった。オゾンの濃度は酸素に比べれば非常に薄く、酸素が少ない原始大気でも、紫外線の量は過去においても大きな変化は無いためで、現在と比べてそれほど少なくない量のオゾンが生成されていた。

また、5億4,000万~5億3,000万年前のカンブリア爆発や、4億年前の脊椎動物の陸上進出(両生類の誕生)に関しても、生物に有害な紫外線を低減するオゾン層との関係が考えられている。このころは、酸素濃度の上昇によってオゾン層の高度が高くなり、地上付近のオゾン濃度が低下した時期および、オゾン濃度が高くなり地上の紫外線が更に減少した時期に一致する。ただし、カンブリア爆発の原因を、多細胞生物の接着分子の生合成に必要とされる酸素濃度の上昇や、浅海域の拡大による生物の生息範囲の増加に求める説もあり、オゾン層とカンブリア爆発の関連性は証明されているわけではない。

なお、近年化石燃料の消費に伴い、大気中の酸素濃度が減少しているとの報告がある。平衡関係にある酸素の減少はオゾン濃度の低下に繋がる。ただし酸素の減少量は現時点では極めて小さな値(年平均0.0004%、224億トン)に留まっている。

オゾンホール

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北極オゾンホールが観測史上最大規模に

南極のオゾンホールオゾンホール(Ozone hole)は、南極や北極上空の成層圏のオゾン層における春期のオゾンの濃度の減少を指す。

人工衛星の映像が、まるで穴があいたように見えることからオゾンホールと呼ばれるようになった。南極上空のオゾンが毎年春期に減少することの発見は、ジョセフ・ファーマン、ブライアン・ガードナー、ジョナサン・シャンクリンの1985年の論文によって発表されているが、最初の報告は1983年12月の極域気水圏シンポジウムおよび翌1984年ギリシャで開かれたオゾンシンポジウムでの、気象庁気象研究所(当時)の忠鉢繁らによる日本の南極昭和基地の観測データの国際発表である。

その後、ストラスキーらが人工衛星ニンバス7号の解析映像を発表し、オゾンホールがマスメディアを通じて一般に認知されるようになった。

NASAの成層圏オゾン濃度の予測フロンが禁止されていなかった場合
NASAの成層圏オゾン濃度の予測フロンが禁止されていなかった場合

オゾンホールの発生は、フロンやハロンが紫外線によって分解(破壊)され、生成した塩素ラジカルが触媒としてオゾンを破壊するために引き起こされると言われている。この作用は、極成層圏雲と呼ばれる氷の雲の存在によって早められる。極成層圏雲を反応の媒体として、気相-固相の不均一反応が起こり、オゾンが急速に破壊されることが知られている。 極成層圏雲の存在は、冬の間に急激にエアロゾルが増加することによって判明してきた。極成層圏雲は、低温であるほど発生しやすい。南極の場合、極渦と呼ばれる強い偏西風帯が南北方向の熱輸送を阻害することにより、放射冷却で気温が低下しやすく、極成層圏雲が生成しやすい。

北極でもオゾンホールの存在は確認されているが、南極ほど大きくない。南半球は陸地が少なく、起伏の大きな地形も少ないが、北半球の場合、チベット高原、ロッキー山脈のような大規模山塊があり、陸地と海洋のコントラストも大きい。このため、北半球では大規模山塊や海陸のコントラストで励起されたロスビー波が成層圏に伝播して極渦を弱め、南極に比べて気温が低下せず、極成層圏雲が生成されにくい。

オゾンホールの影響

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環境科学特別講座-研究最前線からの報告-

南極のオゾンホールオゾンは大気中では微量な存在に過ぎないが、太陽から放射される紫外線の大部分を吸収し、地上にほとんど紫外線を到達させない役割を担っている。 オゾンが減少すると対流圏に紫外線が到達し、成層圏で起きていたオゾン生成の光化学反応が対流圏で生じるようになるが、対流圏でのオゾンは存在期間が短いため、地表へはより多くの紫外線が到達することになる。これが、北極や南極の氷が溶け出す理由だといわれている。

成層圏では対流圏よりも強力な紫外線が酸素に当たる。その際に光化学反応が起きオゾンが発生するが、それに伴い熱も発生させるため成層圏では高度の上昇に伴い気温が上昇する。近年、成層圏ではオゾン層の希薄化に伴う光化学反応の減少と思われる気温の低下が報告されており、その代わりに対流圏付近でその光化学反応が行われ気温が上昇する事が考えられる。またオゾンホールの形成により通常よりも明るい色の雲が形成され、これが太陽光をより多く遮断するため温暖化を防いでいるとする研究結果も報告されている。

南極圏でのオゾンホールは、オーストラリアやニュージーランドの南部にまで広がることがある。この地域での紫外線の増大は、帽子をかぶらないと肌が荒れてしまうほど強烈であるし、人類の健康に無視できない影響を及ぼす。

強度の紫外線は皮膚がんを誘発する要因であるとされている。紫外線の10%の増大は、男性に対しては19%、女性に対しては16%の皮膚がんの増加になるという研究結果もある。 太陽に含まれるA波 B波 C波が細胞やDNAなどを傷つけてしまう。 このオゾン層が減少すると、有害物質が地上に沢山降り注ぎ、あらゆる生物の身体に悪い影響を及ぼす。

北極のオゾンホール
北極のオゾンホール

ねるとん紅鯨団

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ねるとんOP

ねるとん『ねるとん紅鯨団』は、フジテレビ系列局ほかで放送されていた関西テレビ、IVSテレビ制作共同製作のバラエティ番組である。関西テレビやフジテレビでは1987年10月3日から1994年12月24日まで、毎週土曜 23:00 - 23:30 (JST) に放送。司会はとんねるず、構成・ゼネラルディレクターはテリー伊藤。

爆発的な大ヒット番組となり、番組全体の平均視聴率17.3%、最高平均視聴率24.7%(1989年3月4日)と土曜深夜枠ながら常に高視聴率をマーク。番組名は同枠の前番組『上海紅鯨団が行く』(司会:片岡鶴太郎)と、とんねるず→ねるとんを合わせたものである。

開始当初の20回までは『上海紅鯨団が行く』の内容を引き継ぎ、毎回企画テーマが変わっていたが、とんねるずが司会をする集団お見合い企画が好評だったため、途中から集団お見合い企画番組となった。番組タイトルの「ねるとん」自体、集団見合パーティーの代名詞となる。

ねるとん前半
出演者
司会:とんねるず(石橋貴明・木梨憲武)
週変わりゲスト:一般参加者は番組で公募
ナレーション:皆口裕子(初代)、浅木舞(二代目)、橋本由香(三代目)

すれていない若者の視聴者参加番組というのが番組のコンセプトだったため、ナレーションも素人臭さを狙って、オーディションで一番下手だった女性が選ばれた。

ねるとん後半

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ねるとん

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ねるとん町田市立陸上競技場 1/2

ねるとんねるとん紅鯨団のスタジオ収録部分では、とんねるずとゲストが本編VTRを見ながらフリータイム前と後、告白タイムの後にトークをする。

VTRはオールロケで、とんねるずの片方がロケに参加し進行する。毎回、男子全員スポーツマンのスポーツマン大会や、愛車自慢の男子を集めた車大会、高校生限定の高校生大会などテーマが決まっていた。

まず、男性陣の参加者紹介。テロップに、氏名、年齢、特技、好きな芸能人、彼女いない歴が出てくる。特技はその場で披露できるものは、その時に見せたりする。男子全員の紹介が終わったあとで、「女性陣はあそこにいる」と男性陣のはるか遠方にいる女性陣をちらりと見せるが、石橋がMCのときには「オーケー! おめーらの気持ちはよーく分かった! おめーらを待ってるお嬢さん方はあちらにいる!(ここで男性陣の『オー!』という歓声) しかーし! おめーらが見る前に、恒例の(「恒例の」の際に少し引っ張る)タカさ~ん、チェック!(チェックの時の親指と人差し指を立てる決まりのポーズがあり、また『チェック』のところ以外はウラ声)」と言って、石橋だけが先に女性陣の方へ行く。

女性陣の紹介も男性同様、テロップにプロフィールが出て、特技があればそれも披露する。好きな芸能人で女性がとんねるずのそのときのMCでない方を挙げるとあいさつできる(例:木梨がMCなら木梨が「ほら今ごろ貴明がスタジオで見てるよ」と女性を煽りカメラ目線で女性は「貴さん見てますか」とあいさつできる)。女性陣の紹介終了後、ご対面。対面後、アピールタイムとして、特技などを相手に披露(スポーツマン大会などは、自分がやっているスポーツを披露するが、陸上の長距離走の選手は必ずアピールタイムの前の自己紹介の時点で走らされる。そのトラックを走る光景を気にもせずに番組は進行してしまう)。アピールタイムの後、男性陣、女性陣それぞれに、第一印象で良い人を小声で聞いていく。たいてい、一部のルックスの良い人に人気が集中するため、この時点で1番人気や2番人気が決まってくる。また、第一印象が良いもの同士などもこの時にわかる。この2人が接近すると画面下にハートマークが点滅する演出があった。

ねるとん町田市立陸上競技場 2/2

男性が1人ずつ女性に告白する。進行役の石橋(木梨)があらかじめ誰に告白するか聞いた後に、男性が意中の女性の前に立つ。他に競合者がいなければ、そのまま告白は進行するが、競合者がいれば「ちょっと待った!」と叫んで、競合者もその女性の前に立つ(ちょっと待ったコール)。女性に自分の気持ちを告白し、右手(あるいはプレゼント)を前に出す。女性が気に入った男性の手を取ったらカップル成立。気に入らなければ「ゴメンナサイ」といって拒否する。女子告白大会の場合は男女が逆になる。このとき、拒否された男性は大抵の場合走り去っていく。この姿は視聴者の同情と笑いを誘った名シーンでもある。

8時だョ!全員集合

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8時だよ!全員集合

8時だョ!全員集合『8時だョ!全員集合』は、1969年10月4日から1985年9月28日に、TBS系列で毎週土曜日20:00 - 20:54(JST)に放送されていた、ザ・ドリフターズ主演の国民的人気コント番組である。常に日本のバラエティ番組を代表する存在であった事は勿論、記録にも記憶にも残る伝説の番組として現在も語り継がれている。

番組名は単に「全員集合」と省略されることもある。ザ・ドリフターズによるコントから成る前半部分、ゲストの歌のコーナーを挟んで体操や合唱団などのミニコントから成る後半部分から構成されていた。

毎週土曜日、20時(午後8時)から53分間の放送。年に数回は拡大放送もあった。番組終了後、通常は20時54分からスポットの『JNNフラッシュニュース』となる。

放送期間は1969年から1985年までの16年間。ただし、途中1971年4月から9月の半年間は、ドリフの先輩格であるハナ肇とクレージーキャッツがメインを務めた『8時だョ!出発進行』が放送された。

8時だょ!全員集合 part3

停電だョ!全員集合

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8時だョ!全員集合 停電事件

停電だョ!全員集合随時、回り舞台を活用する大掛かりな舞台装置(最後に回り舞台を使用したのは1985年6月8日の放送で、1985年ではこの回のみ)と、入念に練り込んだコントや、大仕掛けの屋台崩しに代表される豪快な落ちなど、出演者たちの身体を張った笑いが、小学生を中心とした老少男女を問わず幅広い層の視聴者に熱狂的に受け入れられた。また、生放送にこだわったため、停電やボヤ騒ぎ、ゲストの負傷等のアクシデントに見舞われた回もあった。

毎回のように三船敏郎、若山富三郎、菅原文太、加山雄三、田宮二郎などの大物俳優や、当時の売れっ子アイドルを呼び、しかも彼らが積極的にコントに参加するなど、かなりの予算と労力を要した。放送2日前からドリフメンバーやスタッフによる打ち合わせを行ったり、「番組がスランプに陥っている」と言う理由で、通常のレギュラー放送を一時休止して(その間は総集編を放送)、ドリフメンバーによる「合宿」までしたという。このように莫大な労力を費やして制作していた番組であった上、出演者のギャラの高騰などによる費用面の問題・出演者に掛ける保険の費用高騰・安全性の問題・その後の様々な表現規制・芸能事務所の生放送番組に対するスタンスの変化などといった業界事情の変化により、現在ではこの様な規模の公開生放送番組を毎週1回のペースで作ることは極めて困難であり、かつてドリフのマネージャーを務め、現在ドリフメンバーが所属するイザワオフィス社長の井澤健も『週刊新潮』のインタビューで「時代が変わり過ぎて、現在ではもう再現不可能な要素が多過ぎる」と語っている。

7時だョ!全員集合

オープニング生放送開始1分前、すなわち19時59分の時点ではステージ上にはいかりやとゲストのみが上がっており、ドリフの残りのメンバーは観客席の通路に待機している。20時ちょうど(正確には20時00分02秒、TBSは時報が鳴るため)になると、いかりやがカメラに向かって大きく指を差しだし「8時だョ!」と掛け声をかける。それと呼応するように、観客席から観客とドリフの残りのメンバー4人が片手を拳にして上げながら「全員集合!」と返し(連動して自動的にカメラの向きが変わる)、ゲイスターズの演奏と共に4人が客席後方から舞台上に登場する。

この間、テレビの字幕ではタイトル文字が飛んでゆき、一旦集まって「全集員合」となり、再び集まって「全員集合」タイトルを構成していた。4人は、この演奏が鳴り終わるまでに、素早くステージに上がらなければならない。その後、いかりやのちょっとしたトークを5~10秒程度挟み(「寒くないか?」「春休みでございますね」「いっていいか?」「さぁ元気良く(省略)」等。年内最後の放送に当たる場合は「本年最後の全員集合です」が挙げられる)、「行ってみよ~!」もしくは「ゆけ~!」「出発~!」という掛け声にあわせてオープニングテーマ曲「ちょっとだけョ!全員集合」が流れ出す。

このオープニングテーマは北海道の民謡である「北海盆唄」の替え歌で、使用は『8時だョ!出発進行』と入れ替わりで番組が再開した1971年10月2日の放送から。振付は藤村俊二。もともと3コーラス流していたが、1983年2月から2コーラスに短縮された。このオープニングテーマの演奏中にテレビの画面ではスタッフロールが流れる。そして最後はドリフの「よろしく~!」の叫びと共に、全出演者がお辞儀をして終わる。

8時だョ!全員集合 オープニング集

全員集合 コント

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8時だよ全員集合 コント「ドリフの修理工場は大パニック」

8時だョ!全員集合この番組のメイン。通称「前半」。時間にして20時04分頃。開始時に「○○(会場名)から生放送("生中継"の場合もあった)」のテロップが出る。20時26分頃に「盆回り」が流れ始めたら、大勢のスタッフがステージに繰り出しゲストの歌1に間に合うように30秒にも満たないといわれる短時間で素早くコントのセットや小道具類をステージ脇に撤収してオープニング時と同様の状態に戻す。

短時間での撤収を可能にするため、大きなセットは全て可動する仕掛けになっている。建物類ではキャスターが付けられていたため、その建物類と床面との間に隙間があった。この時点で演奏席はスタンバイを完了している。約15分コントとなった週もあり、この場合20時19分~20分頃に「盆回り」を流す。撤収作業が終わるのと前後して基本的にステージ脇から歌手が登場し、ほぼ同時に楽曲の演奏が開始され、ゲストの歌1に入る。

ドリフコント 「母ちゃん」

少年少女合唱隊

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8時だよ全員集合 「早口言葉」

少年少女合唱隊少年少女合唱隊は、ゲストと共に歌うコーナー。階段様のステージが設置されパイプオルガンが奏でるジャック・アルカデルトの「アヴェ・マリア」と共にスタートし、司会役のいかりやが神父のような格好、残りの出演者が白いスモックに白いベレー帽、と言う少年聖歌隊の様式で登場する。

この衣装に憧れたアイドル歌手も多かったという。いかりや以外のドリフのメンバーは半ズボンを穿いていた。基本型は童謡などをドリフとゲストで合唱。しかしコントでだんだん脱線していく。たいていトリは志村の定番ネタで、「東村山音頭」「ディスコ婆ちゃん」「早口言葉」「ワンダードッグ」「ナターシャとアヤコフ」はこのコーナーより誕生。末期(1983年2月19日)には消滅。1年7ヵ月後の1984年9月29日放送「15周年だヨ!全員集合」で1度限り復活した。このコーナー終了後、その流れで歌の出番が待っているゲストは、素早く白いスモックを脱がなければならない上、またショートコントの出番も待っているゲスト(ドリフターズは全員)は、それに間に合うように短時間で衣装替え等を済まさなければならない。

早口言葉

東村山音頭

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ドリフ 少年少女合唱隊 早口言葉~東村山音頭

東村山音頭東村山市出身の志村けんが、ザ・ドリフターズの一員として出演していたTBS系のバラエティ番組「8時だョ!全員集合」での名物コーナー「少年少女合唱隊」にて「東村山音頭」をリメイクし披露、後にレコード化もされた。番組放送当時の視聴者を中心に、オリジナルよりも知名度が高い。

『志村けんの全員集合 東村山音頭』は、オリジナルの「東村山音頭」とは歌詞・メロディともに異なり「東村山4丁目」「3丁目」「1丁目」の歌がある。「4丁目」は正調に近い形だが、それ以降が独自に加えられており、「3丁目」はいかりや長介、1丁目は志村けんが作詞・作曲。「東村山2丁目」という歌詞がないことについて後年志村は「語呂が悪く、ギャグのテンポがずれるから」と説明している。また自身の著書『変なおじさん』では「作る時間がなかった」とも語っている。なお「東村山○丁目」という地名は東村山市には実在しない。当時、多くの小学生が訪れ、交番で「東村山1丁目~4丁目」の場所を尋ねるといった社会現象が起こった。

志村けん 東村山音頭ディスコ婆ちゃん早口言葉

ヒゲダンス

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8時だよ全員集合 コント「ヒゲダンス 吹き矢編」

ヒゲダンスヒゲダンスは、ザ・ドリフターズの加藤茶と志村けんが中心となって、1979年からテレビ番組「8時だョ!全員集合」のコントコーナーで披露した、大道芸の要素を取り入れたダンスである。

2人は黒の燕尾服に付け髭の扮装で、腕をまっすぐに下ろし手首を外側に90度向けるというペンギンに似た姿勢を取り、"Do Me"の軽快な音楽に合わせ無言で膝を大きく曲げながら歩き回る踊りをしつつ、様々な芸に挑戦する(難易度が高くなるほど志村の演技がオーバーになる)。ここで、加藤茶の役はボケで基本的に失敗をし、志村けんの突っ込みに対して笑いを取り、続いて志村による芸の成功により拍手を得るかと思ったところで、芸の種をわざと暴露させ、更なる笑いを取る、という構成が多く取られていた。背景には必ず煉瓦造りの壁を模したセットが用いられていた。

また、一通りの芸を終えて志村が戻ろうとする際、加藤がアンコールをする事がある。志村は一度は固辞するが、加藤が客席をけしかけて万雷の拍手が起きると、志村はやけくそ気味に手を振りながらも、アンコールにきっちりと応えて、更なる笑いを取っている。

ヒゲダンス バケツ編

ヒゲダンス集

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ドリフ ヒゲダンス集

ヒゲダンスヒゲダンスは、1979年から暫くの間、子供だけでなく大人の間でも会社の忘年会や新人歓迎会の芸にも使われる程の大ヒットを飛ばした。軽快な音楽に合わせて比較的簡単に場を盛り上げられる芸であったことが、人気の一因と考えられる。永谷園からは加藤・志村コンビをイメージキャラクターに起用した「味ぶし」、「鮭っ子」等の各種ふりかけが売られる(1980年当時)程の人気であった。「8時だョ!全員集合」にゲスト出演した三船敏郎もアドリブでヒゲダンスを披露し、ドリフターズメンバーや観客を驚かせたことがある。

テレビ番組「全員集合」内でのヒゲダンスそのものはあまり長く行われていたわけではなく、1980年9月20日の放送を最後に終了した。しかし視聴者に与えたインパクトは大きく、ヒゲダンスキットは現在でもパーティグッズの定番の一つとして市販されている。

ドリフ ヒゲダンス グレープフルーツ編

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ヒゲダンスのネタ元

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大阪のとんでもない爆笑王を見に行こう!

Mr.ボールドヒゲダンスのネタそのものは、大阪の芸人Mr.ボールドの持ち芸(一輪車に乗り、客にリンゴなどを投げさせ、口にくわえたフォークでキャッチして見せるなど)の盗用である。

Mr.ボールドは、志村たちの舞台の前説をこなしていた時期がある。両手を上下させながら脚を踏み鳴らし、前後に身体を往復させる仕草は、一輪車に乗ったMr.ボールドがバランスを取るためにする仕草をそのまま真似したものである。大きな口髭やタキシードも、本来Mr.ボールドのトレードマークである。このヒゲダンス流行後、Mr.ボールドは自らの舞台で「ドリフの真似だ、パクリだ」との誹りを受けねばならなかった。

このヒゲダンスの振り付けは、「私が考えました」と、「おしゃれカンケイ」などで藤村俊二本人がコメントしているが、2008年4月18日放送のNHKFM「邦楽ジョッキー」の中では一転して否定している。「ヒゲダンスは藤村のトランクにあったヒゲを加藤と志村が拝借したことで生まれた」との説もあるが、藤村も加藤や志村とともにMr.ボールドの舞台を間近に見ていた一人である。

追悼 Mr.ボールドさん

ヒゲダンスのスタイル自体は、1930年代にハリウッドのドタバタ喜劇映画で活躍したマルクス兄弟の一人、グルーチョ・マルクスにまで遡れるという指摘もある。グルーチョは付け髭でなく墨で書いた髭とゲジゲジ眉にぼさぼさの頭という姿で、タキシードやモーニングなどの仰々しい服をだらしなく着込み、葉巻をくわえて尊大に振る舞いつつ、不条理なスラップスティック演技を見せた。そのスタイルはのちの加藤・志村のヒゲダンスファッションに非常に似通っている。つまり、Mr.ボールドの持ち芸に、グルーチョの要素を混ぜ合わせたものが「ヒゲダンス」ということであろう。

ソウル・ミュージックを好んで聴いていた志村の推薦により、テディ・ペンダーグラスの「Do Me」のベースラインを強調したBGMを独自に作成(編曲は「8時だョ!」の音楽担当であったたかしまあきひこ)。『「ヒゲ」のテーマ』としてレコード化(のちにCD化も)される人気を誇った。

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体操コーナー

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ドリフ8時だョ!全員集合 ファンキー体操コント

体操コントショートコントは通称「後半」。いかりやは進行役。初めにいかりやの指揮によりゲイスターズが後半のテーマを演奏後、いかりやの「後半参りましょう、後半しゅっぱーつ」で始まる。コントの変わり目には「次参りましょう、次どうぞ」。コントは主にいかりや以外の4人とゲストによる。落ちの台詞は「コマーシャル(いってみよう)」。

ショートコント終了後のセットの撤収もエンディングに間に合うように短時間で素早く行わなければならない。その為、多くの大道具類には前半コントと同様に素早く撤収できるための仕掛けが取り付けられている。加藤茶の『ちょっとだけよ』や仲本工事の体操コーナー、ヒゲダンスはこのコーナーの一部。

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