

豫 譲(よ じょう)は、中国春秋戦国時代の人物。敗死した主君の仇を単身討とうと試みたが、遂に果たせなかった。晋に生まれる。初めは六卿の筆頭である范氏に仕官するが、厚遇されず間もなく官を辞した。次いで中行氏に仕官するもここでも厚遇されず、今度は智瑶(智伯)に仕えた。智伯は豫譲の才能を認めて、国士として優遇した。
数年後、智伯は宿敵の趙無恤(趙襄子)を滅ぼすべく、韓氏・魏氏を従え趙襄子の居城である晋陽を攻撃した。三氏の連合軍に包囲された趙襄子は二人の腹心を秘かに韓氏、魏氏の陣営に赴かせて韓氏と魏氏を連合から離反させて味方につけた。韓氏と魏氏の裏切りにあった智伯は敗死し、智氏はここで滅ぼされた(紀元前453年)。
趙襄子は智伯に対して積年の遺恨を持っていたために、智伯の頭蓋骨に漆を塗り、酒盃として酒宴の席で披露した(厠用の器として曝したという説もある)。一方、辛うじて山奥に逃亡していた豫譲はこれを知ると「士は己を知る者の為に死し、女は己を悦ぶ者のために容づくる」と述べ復讐を誓った(これが「知己」の語源である)。やがてほとぼりが覚めると豫譲は下山し、趙襄子を主君の敵として狙った。
左官に扮して晋陽に潜伏していた豫譲は、趙襄子の館に厠番として潜入し暗殺の機会をうかがったが、挙動不審なのを怪しまれ捕らえられた。側近は処刑する事を薦めたが趙襄子は「智伯が滅んだというのに一人仇を討とうとするのは立派である」と、豫譲の忠誠心を誉め称えて釈放した。

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