18世紀になり、交易が和人の商人に任されると、商人は儲けるため、アイヌ民族に漁をさせたり、遠くまでニシン漁などに行かせるようになり、アイヌ民族の生活は大きな影響を受けました。また、天然痘という病気が本州から持ち込まれたために、多くのアイヌ民族が亡くなりました。
明治時代(1868年)になると、政府は蝦夷地を「北海道」として日本の一部にしました。政府は法律を定め、アイヌ民族は山や川で狩りや漁が自由にできなくなり、生活が苦しくなって漆の器などの宝物を手放す人も出てきました。
名前も和人風に変えさせられたり、いれずみなどの風習も禁止されたりしました。学校では日本語が教えられ、アイヌ語を話せる人も少なくなりました。
そのような中、登別市のアイヌ民族、カンナリキ(和名 金成喜蔵)らは自分たちの子どものために学校をつくろうと立ち上がりました。明治21年(1888年)、地元のアイヌ民族とキリスト教の宣教師であったジョン・バチラーにより、アイヌ民族の子どもたちのための学校「愛隣(あいりん)学校」がつくられました。