1994年から2年間、ひじ痛とルーズショルダーに悩まされ一軍登板はできなかった。1996年後半に一軍に復帰。1997年は抑えの高津臣吾が不調に陥ったため一時的に代理を務める。7勝2敗19セーブを記録しカムバック賞を受賞した。1998年から再び先発に転向する。被安打が増え6勝11敗と負け越すが防御率2.72を記録する。1999年から背番号を21に変更。登板回数は少ないものの先発ローテーションに入り安定した投球を続け好成績を残すが、ひじ痛・肩痛は癒えておらず同年オフに2度目の右肩の手術を受けている。
2001年にひじ痛・肩痛が再発、登板数も1試合に終わる。オフに再起を誓い、3度目となる右肩の手術を受ける。2002年の秋季コスモスリーグに登板するも9球目に右肩を亜脱臼しリハビリに残りシーズンを費やす。同年オフに球団から引退勧告とヤクルト本社への入社を勧められるが現役続行を志願、過去最大となる88%減の年俸で契約した。2003年10月25日、秋季コスモスリーグの対巨人戦に登板し、打者3人を相手に内野ゴロ・四球・四球という投球内容で降板。かつて150km/hオーバーを記録したストレートは109km/hにとどまった。10月29日、球団の引退勧告を受け現役引退を表明。