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1993年4月20日に先発で初登板し7回を10奪三振2失点で勝利投手となる。150km/hを超えるストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。6月9日の石川県立野球場での対巨人戦では8回まで無失点、更にセ・リーグタイ記録である16奪三振をあげるが援護もなく0-0のまま迎えた9回裏、篠塚和典にソロ本塁打を打たれサヨナラ負けを喫する。この後、悔しさのあまり自軍ベンチに向かって自分のグラブを投げ感情を露にした。なお「負け試合における」1試合16奪三振はこのケースが初めてである。この試合の他93年は12試合の先発登板の内、味方打線が1点以下しか取れない試合が実に7試合と打線の援護に恵まれない事が多かった。
だが伊藤がルーズショルダー(非外傷性肩関節不安定症)である事は首脳陣には分かっていたため、コーチ陣は故障を危惧し登板回数・投球回を減らすよう促すが、野村はその助言を聞かずそれがシーズン中盤の故障に繋がった。この事に関し、野村は監督退任後に「積極的に登板させた事によって彼の選手生命を縮めてしまった。申し訳なく思っている。」とコメントしている。7月中旬にひじ痛のため戦線離脱。シーズン終了まで復帰することはなかったが、実働3ヶ月ながら新人王を受賞。