テクノポップという言葉は、1978年に大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされる。この造語を気に入った坂本龍一が様々な媒体に出演して使ったことにより、一般に広まった。
1980年ごろYMOブームが起きると、YMOに続く「テクノ御三家」としてP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが紹介された。プラスチックスはファッションデザイナーらによって結成されたバンドで、のちのバブル期の日本を先取りしたような「軽さ」をうち出した。演劇畑出身のヒカシューは、クラフトワークの『モデル』を能・狂言のような邦楽的な歌唱法でカバーした。P-MODELはもともと実力のあるプログレバンドだったが、電子楽器を利用してポップなスタイルに転じた。彼らに共通しているのは電子楽器の使用だけでなく「軽さへの指向」である。テクノポップは、日本にとって1970年代の文化の重さから脱出するための通過儀礼の役割を果たしたと言える。
また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』が数多くリリースされている。これらの多くは坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏などがプロデュースしている。