水主町は、唐津初代藩主寺沢志摩守広高が築城時に、水軍の基地として船宮を設け、その周辺に水主たちを住ませたのが町の始まりです。後に城下17カ町と同格扱いとなり、寺沢氏改易後一般町民も移住するようになりました。
江戸時代後期の文化年間(1804~1817年)には、戸数71戸・人数293人で穀船5隻、川船7隻がありました。江戸時代末期には、領内で石炭が採掘されるようになり、町内の富田屋宮島家と横浜屋田中家は、御用石炭問屋として明治初期まで繁栄しました。
「鯱」は、明治9年(1876年)細工人富野淇園、大工棟梁平野町木村與兵衛、鍛冶木綿町正田熊之進、木挽本町楠田儀七、塗師棟梁久留米住通町3丁目川崎峯次晴房らによって製作されました。
水主町が「鯱」を選んだ理由としては、当初龍王山を造る予定であったが、江川町で蛇宝丸(七宝丸)を造ることになったので、急きょ富野淇園に相談して海と水に関わる鯱を造ることになった。鯱が火災よけの魔力があり、町名の水と関係があるので決まったとも言われています。