IMFの統計によると、ブータンの2011年のGDPは14億ドルであり、日本の人口5万人程度の市町村に相当する経済規模である。一人当たりのGDPは2121ドルであり、世界平均と比較すると大幅に低い水準である。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は17万人と推定されており、国民のおよそ25%を占めている。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国(最貧国)に分類される。
1985年に公民権法(国籍法)が制定されたが、その際、定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、国籍を実質的に剥奪された住民が、特に、南部在住のネパール系住民の間に発生した。そもそも、ブータン政府は彼らを不法滞在者と認識しており、これはシッキムのような事態を避けたいと考えていたための措置だったといわれる。
そのシッキム王国はもともとチベット系民族が主導権を握る国家であったが、ネパール系の移民が急増した結果として両者の人口比率が逆転し、それが王国の崩壊とインドへの併合の遠因となったとみなされている。
ブータンの国家的アイデンティティを模索していた政府は、1989年「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法の順守などが実施された。1988年以降、ネパール系住民の多いブータン南部において上記「国家統合政策」に反対する大規模なデモが繰り広げられた。この件を政府に報告し、ネパール系住民への対応を進言した王立諮問委員会のテクナト・リザル(ネパール系)は反政府活動に関与していると看做され追放される。
この際、デモを弾圧するためネパール系住民への取り締まりが強化され、取り締まりに際し拷問など人権侵害行為があったと主張される一方、過激化したネパール系住民によるチベット系住民への暴力も報告されている。混乱から逃れるため、ネパール系住民の国外脱出(難民の発生)が始まった。後に拷問などの人権侵害は減ったとされる。国王は、国外への脱出を行わないように呼びかけ現地を訪問したが、難民の数は一向に減らなかった。この一連の事件を「南部問題」と呼ぶ。後に、ネパール政府などの要請によりブータンからの難民問題を国連で取り扱うに至り、ブータンとネパールを含む難民の流出先国、国連 (UNHCR) により話し合いが続けられていたが、2008年3月に難民がブータンへの帰国を拒んだため、欧米諸国が難民受け入れを表明し逐次移住が始まる予定である。