三波 伸介(1930年(昭和5年)6月28日 - 1982年(昭和57年)12月8日)は、日本のコメディアン・俳優・司会者・タレント。本名、澤登 三郎。昭和期を代表するテレビスターのひとり。東京府東京市本郷区(現在の文京区)出身。血液型はB型。長男は喜劇役者の2代目三波伸介(旧名・三波伸一。2009年12月8日、「二代目・三波伸介」を襲名)。当たりギャグは「びっくりしたナァ、もう!」。
1970年12月20日に日本テレビ系「笑点」の3代目司会者に就任。そのきっかけは、同年2月8日にてんぷくトリオとしてゲスト出演した札幌の地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった前田武彦の代役として司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々落語に造詣が深かったこともあり、並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切った。大喜利では、談志時代のナンセンスなブラックユーモアを主体にした掛け合いから落語家の丁々発止による掛け合いに代表されるような、分かり易いドタバタ路線に変えた。番組自体の人気を上げたことはもちろん、自身がピン芸人としてブレイクするキッカケとなった。1973年4月20日に戸塚が42歳の若さで死去。残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。
その後「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍。NHK総合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称した。
1982年12月8日、自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た夫人と付き人が発見、救急車で病院へ運ばれたが既に意識不明の状態で、解離性大動脈瘤破裂により意識が戻らないまま急逝した。当時テレビのワイドショー番組でインタビューに夫人は「三波はよく死んだふりをして家族をからかうことがあったため、このときもしばらく『死んだふりをしているのだろう』と思っていたところ、様子がおかしいのに気付いて救急車を呼んだ。」と答えていた。「もし勘違いをせずにすぐ救急車を呼んでいたら三波を死なせずに済んだかもしれない」と悔やんでいたという。翌春放送予定だった三波主演の遺作となったドラマは、正月の放送予定を変更して年末に繰り上げて放送された。満52歳没(享年53)。
肥満体であったことと、多忙のため多い日でも3~5時間しか睡眠を取れず、タバコは一日最低でも3箱を吸い、さらにコーヒーも数杯好んで飲んでいた。ただし、酒は下戸で一滴も飲まなかった。多くのレギュラー番組を抱え、名司会者として順風満帆の芸能生活を送っていた矢先の死だった。突然の訃報を受け駆けつけた盟友の伊東は対面で開口「こりゃあウソだろう。寝てるんだろう!」と発し記者会見の場で、「(三波の亡骸を触ったときに)体がまだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて……。寄らば大樹の陰で、私などは彼のおかげでここまで来れた。(てんぷくトリオは)もう一人になってしまったんだなぁ……」と言いながら号泣した。棺に納められる際の三波は、妻と息子(2代目三波伸介)と伊東によって黒の紋付き袴が着せられた。
葬儀・告別式は12月11日、東京都中野区の宝仙寺で営まれ、葬儀委員長は伊東が務めた。葬儀には芸能・放送関係者やファンら約1,600人が参列し、三波の突然の死を悼んだ。弔辞は「お笑いオンステージ」のチーフプロデューサーを務めた増子正利らが読み、仕事の都合で参列出来なかった中村メイコ(「お笑いオンステージ」で三波と共演)は事前に対面し弔い棺に「お笑いオンステージ」の配役用に製作した指輪を納め、式には肉声テープが式場内で流された。「参列できずごめんなさい。でも、泣きのメイコがにっこり笑って舞台を務めます。大衆に結びついた喜劇をまっしぐらに追ったあなた。日本中に大きな笑いを振りまいたあなたに拍手を送ります。さようならは言いません。お疲れ様でした。」と泣きながら三波へ最後のメッセージを語り続けた。出棺後、遺体は東京都品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。
遺産は不動産のみであり、初代伸介の死後に預金通帳を遺族が確認した処、全く残っていなかった。長男の伸一は「気前が良すぎて全部使っちゃったんですよ。それで父が亡くなったらスッカラカンでした」という旨のコメントを語っている。そのため、伸一は自邸を売却するなどして生活費を工面したという。