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Channel: スチャラカでスーダラな日々
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てんぷくトリオ

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てんぷくトリオ (三波伸介・戸塚睦夫・伊東四朗)

てんぷくトリオてんぷくトリオは、1960年代から1970年代にかけて活躍した三人組のお笑いグループ。演芸ブームの一つである「トリオブーム」において中心的存在を担った。浅草公園六区を中心とした軽演劇は戦前の浅草オペラ流れを汲む浅草フランス座演芸場東洋館といった舞台で舞踊の幕間に演じられ劇場の座付俳優や地方公演を行う演芸劇団などが出演しその芸人や喜劇役者は公演を終えたあとの夜間には繁華街で一人または仲間と即席コンビを組みキャバレーなどの端席の余興に出て凌いでいた。ここから脱線トリオ、スリーポケッツなどが独立しテレビなどへ活動場所を移し空いた枠へ様々な芸人達が続いた。

浅香光代一座に在籍した戸塚と三波は時間を置いてそれぞれ1955年頃には新宿フランス座に移り、ここでは人気トップ格の一人に石井均がいた。 石井は座付専属だったが外部からキャバレーの仕事を紹介され、戸塚を引き込み「石井・戸塚コンビ」として活躍したが1958年石井は自身の劇団「笑う仲間」を立ち上げ戸塚も同行したが座長職は多忙極め石井に夜のキャバレー営業継続は時間的な困難が生じ、そこへ三波が代わって継承した。ところがフランス座に残った三波とスケジュールが異なり出演できないケースが度々発生し戸塚は劇団仲間の伊東に代演を依頼した。その後、三波が急遽戸塚の前から姿を消してしまったために、戸塚はその代役として伊東を「(ニセ)三波」に仕立て続け以降もこの二人で余興に出ていた(余興をする営業先との間に芸能事務所が仲介し三波失踪をごまかす意図もあった)。

三波は出奔後大阪に滞在、浅香光代一座で交流のあった玉川良一の誘いで東けんじと共に「おとぼけガイズ」というトリオコントを組んで大阪劇場のレギュラーとなっていた。この大劇公演は毎日放送でテレビ中継され、東京でもネットされたが、東京でこの番組を見た戸塚と伊東は行方不明になったと思っていた三波がこんなところで活躍していたことに面食らったという。おとぼけガイズは東京逆進出を巡る意見の対立に玉川と東の個人的な都合が重なり三波が単身で帰京し解散状態になった。再会は果たしたが戸塚はすでに伊東を「三波」としてコンビを継承、劇団と両立していたが、営業先で馴染みになっていた「(ニセ)三波改め伊東」にリーダー格「本物の三波」復帰の3人でやることとなったが、石井均一座の解散で副業だったこのトリオが本業になり、正式にトリオを結成。三波はフランス座に復帰せず太田プロダクションに所属していた。

夜間のキャバレーを巡る営業活動で当初はトリオ名がなく、便宜上「三波戸塚伊東トリオ」と名乗っていた。ある日営業先で「(トリオの名前もつけないなんて)ホントにもう、ぐうたらなんだから」と言われたのを機に、それにしましょう、と「ぐうたらトリオ」と名乗った。三波の帰京復帰から程なく玉川良一も東京へ移動し再び三波を誘いかつての知遇を頼った。フジテレビの大島正俊ディレクターからテレビ出演の機会を得て玉川と三波の共演から徐々に三波のみ単独で引き立てられる機会が増え、そこにもう一方の活動でおもに夜営業をしていたぐうたらトリオを紹介し売り込んだ。これが功を奏し日劇出演が決まったが日劇側からトリオ名にクレームが付いた。そこで「てんぷくトリオ」に改名させられてしまった。人気の脱線トリオ、「脱線」の向こうを張る「転覆」だったが、ゲンが悪いと思ったのか三人ともこの改名に不満であったという。以降、トリオブームの牽引役として活躍。井上ひさしや前川宏司といった座付き作家にも恵まれ一躍人気者になった。代表作として『名月赤城山』(作:三波伸介。戸塚が国定忠治役)、『国定忠治』(作:前川宏司。三波が国定忠治役)、代表的なギャグに「びっくりしたなぁ、もう!」(三波が驚いた口調で言う)がある。

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