この遺跡は、久しく忘れ去られ密林のなかに埋もれていた。その原因については、火山の降灰によるものであるとする説と、イスラム教徒による破壊をおそれて人びとが埋めたという説がある。1814年にイギリス人のトーマス・ラッフルズ(当時ジャワ総督代理)とオランダ人技師コルネリウスによって森のなかで再発見され、その一部が発掘された。
1851年から1854年にかけての第2次調査では、壁面のレリーフのほとんどが現れ、1885年の発掘調査の際には、土台の内壁に、人間のあらゆる欲望を描いた160面のレリーフが現れた。崩落の危険性があるため、埋め戻され、再び覆い隠されることとなった。1900年にはオランダ政府によって発掘調査委員会が組織され、1907年には写真記録がおこなわれた。1907年から1911年にかけてはオランダ人技師ファン・エルプによって復原工事がおこなわれている。
インドネシア独立後の1960年代初頭には、遺跡は崩壊寸前の危機にあったが、地盤沈下による壁と床の傾斜、ムラピ火山の噴火後の構造破壊を防ぐ目的で、ユネスコ主導のもと1973年から10年の歳月と2,000万ドルの費用をかけて修復工事がおこなわれ、1982年に完了した。その際、水による浸食を防ぐため排水路を設ける必要が生まれたため方形壇部分をいったん全部解体し、石のひとつひとつにナンバリングを施し、コンピュータ管理をおこなっている。この修復事業には日本はじめ27か国が資金協力をおこなった。日本では国際技術諮問委員として千原大五郎が選出されている。
1980年からは日本が技術協力をおこない、ボロブドゥールとプランバナン寺院群の2大遺跡とその周辺を歴史公園として整備し、文化遺産を保護しながら、観光と地域振興を図る計画が実施に移された。