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Channel: スチャラカでスーダラな日々
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1000 KNIVES

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1000 KNIVES - YMO 1979 LIVE at THE GREEK THEATRE

1000 KNIVES千のナイフ(Thousand Knives)とは、1978年10月25日発表の坂本龍一のデビューアルバム。または、このアルバムに収録された曲。タイトルはベルギーの詩人アンリ・ミショーがメスカリン体験を記述した書物『みじめな奇蹟』の冒頭の一節からとられた。

担当ディレクターによるとレコーディングにはコロムビアの第4スタジオで延べ339時間が費やされた。当時の坂本は、昼間にスタジオミュージシャンをこなし、夜12時から朝までこのアルバムを作成し、何か月もかかったが、寝なくても平気だったと回想している。コンピュータ・オペレーターは松武秀樹が担当。坂本はシーケンサー・ローランド MC-8を初めて利用したが、このとき、音楽のノリ(はね方)を数値で分析して、コンピュータで表現することを発見している。このアルバムで、坂本らはイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)に繋がる制作手法のノウハウを得た。

ギターで渡辺香津美が参加。坂本からの注文は「火がついたように弾きまくってくれればいいから」だった。山下達郎もカスタネットで参加している。

1000 KNIVES - YMO 1979 LIVE at THE VENUE

Technopolis

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YMO Technopolis Live

Technopolisテクノポリス (TECHNOPOLIS) は日本の音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」の1枚目のシングル。または同シングルに収録された曲。コンピュータによる自動演奏の印象が強いが、コンピュータ・プログラマーの松武秀樹とレコーディング・エンジニアの小池光夫によれば、トラック数不足から同期信号を消した上に録音することになった関係で「7割くらい手弾き」である。

イントロや曲中に使用される「TOKIO」のフレーズは駅のアナウンスを模したものである。日本でのヴォコーダーの使用例の代表的なものとして取り上げられることが多い。録音時に使ったヴォコーダーはローランドVP-330の試作機である。「TOKIO」の「TO」の部分でピッチを上げ、「KIO」の部分でピッチを下げるという工夫がされている。「T・E・C・H・N・O・P・O・L・I・S」の部分は12拍を正確に10分割したテンポで発音されている。最後の「S」は、13拍目と揃うようになっているので、実質「S」を除いた10文字を12拍中に発音するように設計されている。

YMO - Technopolis Official Video

Rydeen

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YMO - Rydeen (Budokan 1980)

Rydeen「ライディーン」(雷電、RYDEEN)は、日本の音楽グループであるイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の2枚目のシングル曲。

「テクノポリス」と並ぶYMOの代表曲である。メロディはバーで高橋ユキヒロが鼻歌で歌ったのを、坂本龍一がメモに書き起こして作られたとされる。イントロのコードは高橋がすでにキーボードで考えていたもので、続きの部分は坂本が聞き取ったものである。坂本はその光景をはっきりと覚えているが、高橋は覚えていない。

元々のタイトルは相撲取りの「雷電爲右エ門」から『雷電』と表記された。坂本は「『雷電』には東海道五十三次のような浮世絵のイメージがあり、浮世絵が世界に影響を与えたように、自分達の音楽も世界に影響を与えることと重ね合わせた」と発言している。その後、細野の「アメリカで今『勇者ライディーン』っていうアニメがヒットしている」ので「じゃあ、『ライディーン』にしちゃおう」という発言で「ライディーン」となった。

無機的な表現とするためあえて抑制したつくりだった「テクノポリス」に対して、「ライディーン」は逆に盛り上がるように作られている。また、細野は「遊びながら、当時の自分達では作れるとは思っていなかったサウンドができ、非常に楽しいレコーディングだった」と回想している。

ライディーン

Firecracker

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YMO - Firecracker (Budokan 1980)

YMOファイアークラッカー - FIRECRACKERの原曲はマーティン・デニーのアルバム『クワイエット・ヴィレッジ』に収録されているもの。YMOデビュー戦略として、「チャンキー・ミュージック」と銘打ち、この曲のカヴァーを売り出そうと、細野が構想したことが細野のメモに書かれている。本アルバムで最初に録音された。当初クリック音を頼りに3人で人力で録音したが、細野いわく「その出来があまりにも当たり前で、今までと変わらないものになってしまって」、その場で消去してしまった。しかし、そのテイクで「コンピューターの要素をもっと強く出していかないと面白くない」ことがわかったという。印象的なイントロ(ベースとフルート風のシンセサイザー)はシーケンサーによる演奏である。間奏のピアノは坂本による即興で、マリンバは細野が演奏している。パーカッションのほとんどはシーケンサーによるものであるが、クラップはPollard SYNDRUMを使って高橋が叩いたものである。エンディングの爆竹風の音はシンセサイザーではなく、効果音を用いている。アメリカでヒットした際には、デニーから自分の曲をカヴァーしてくれたお礼と、ヒットを祝福する電報が届いた。

YMO - Solid State Survivor (Budokan 1980)

Cosmic Surfin'

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YMO - Cosmic Surfin' (Budokan 1980)

Cosmic Surfin'コズミック・サーフィン - COSMIC SURFIN' は細野晴臣の作品。元々は鈴木茂、山下達郎とのアルバム『パシフィック』に収録されていた。細野は『パシフィック』制作時点で、既にテクノへの路線を目指す意思があったと回想している。

更に、インストと言えばベンチャーズということから「テクノとベンチャーズを掛け合わせて作ったんだと思う」とも語っている。松武秀樹のコメントによると、坂本と高橋が要望してアルバムに入れ、坂本が原曲を分析してアレンジしている。メロディーはPS-3100、シンセ・ベースやサウンドエフェクトはMoogIII-Cを使っている。高中正義がギターで参加している。アメリカでのシングル「FIRECRACKER」のB面に収録されたバージョンは、オリジナルよりもテンポが遅い上、早くフェイドアウトしている。

YMO - Cosmic Surfin(Live in LA 1980)

Behind The Mask

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YMO - Behind The Mask (Budokan 1980)

Behind The Maskビハインド・ザ・マスク(BEHIND THE MASK)は、坂本龍一作曲、クリス・モズデル作詞の楽曲。初収録は1979年にリリースされたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』である。しかしライヴでは1stアルバム発売前のデビューライヴから演奏されている。坂本がセイコーのCM曲としてすべて手弾きで作成した曲がベースとなっており、そのトラックはYMOのベストアルバム『UC YMO』に収録されている。

それまで難解なコード進行を得意としてきた坂本龍一だったが、ここでは単純なロックのコード進行(F-D♭-E♭-Cm/C)を使用している。メロディは坂本と高橋幸宏が共同で担当したため、ある時期まで高橋が作曲者として連名でクレジットされていた。本曲は数多くのカバーバージョンが示すように、海外での評価が高い。しかし細野晴臣と高橋は、この曲を初めて聴いたとき非常に当たり前の曲と思ったらしく、特に細野はこの曲のすばらしさを認識できなかった自分自身に対して「プロデューサーとしては失格」と発言している。海外ツアーで本曲を演奏すると聴衆が踊り出す現象が起こり、坂本が「この曲だけは現地の聴衆が『ロックンロールだ!』と騒いだ」と何度か語り、その理由が作曲者自身にも何故だか判からないと発言していた。

BEHIND THE MASK - YMO 1979 LIVE at THE GREEK THEATRE

La Femme Chinoise

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YMO - La Femme Chinoise (Budokan 1980)

La Femme Chinoise中国女(La Femme Chinoise)は高橋幸宏作曲、クリス・モスデル作詞の楽曲。初収録は1978年にリリースされたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』。高橋幸宏が断片的に作曲してきたメロディーに細野晴臣と坂本龍一がアレンジを施した。

この曲の高橋のヴォーカルを聴いて、YMOのメインヴォーカルを高橋にすることにしたといわれる。YMOをインスト・バンドと思っていた細野にとって、以下の理由から、この曲がYMOの中で重要だったとコメントしている。

歌を歌ったことでYMOがヴォーカル・グループとしての可能性が提示された。
曲自体がヨーロッパ的な香りのするもので当時本当のテクノだと思った。

イントロや間奏の「テンテンテンテン…」という箇所は、三本指でしかキーボードを弾けないキーボーディストを想定し、ダサいけどかっこいいというイメージを表現している。具体的にはブライアン・フェリーの弾くキーボードである。高中正義がギターで参加している。元々は坂本が「パンクみたいなディストーションのギター」を注文したが、高中が意味を理解せず、そのまま録音して帰った。

LA FEMME CHINOISE - YMO 1980 LIVE at A&M STUDIO

君に胸キュン

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君に胸キュン

YMO「君に、胸キュン。」はイエロー・マジック・オーケストラの7枚目のシングル。1983年3月25日にアルファレコード(Y.M.O.レーベル)よりリリースされた。

YMOのオリジナルアルバム『浮気なぼくら』の先行シングルとしてリリースしたテクノ歌謡。YMOのシングルとしては一番売れた楽曲で、表題曲はカネボウ化粧品のCMソングに使用された。「かわいいおじさんたち」というコンセプトで発表され、今までの無機質なイメージとは全く違う、アイドルのような爽やかないでたちの3人がパフォーマンスを披露した。立花ハジメが監督したPVでも3人が振り付けをつけて踊っていることも含め、それまでの路線と大きく一線を画した。作詞は細野晴臣のかつてのバンドはっぴいえんどのメンバーの松本隆が担当。CMのキャッチ・コピーである「胸キュン」というキーワードをそのまま使用した。

このシングルで、オリコンチャートや『ザ・ベストテン』などの歌番組などでランキング1位の獲得を目指したが、オリコンチャートでは最高位2位、『ザ・ベストテン』では最高位3位という結果であった。TVやライヴでは高橋幸宏はドラムではなく、ギターを持つ(演奏はしない)。ドラムパートは打ち込み機材(LM-2)をそのままTVスタジオに持ち込んで使用していた。テレビCMとこの曲のヒットにより、「胸キュン」という単語が世間一般で使用されるようになった。

【YMO】君に胸キュン について語る三人

坂本 龍一

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「オシャレ30・30」坂本龍一

坂本龍一坂本 龍一(1952年1月17日 - )は日本の音楽家。作曲、編曲、音楽プロデューサー、ピアニスト、キーボーディスト。世界的に活動している日本人ミュージシャンである。その音楽性は幅広く、クラシック音楽が根幹にはあるものの、民俗音楽、現代音楽にも造詣が深く、ヘヴィメタルとカントリー音楽以外はすべて演奏分野の範疇にある。

幼いころから作曲を学び、東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。1970年代後半よりソロとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなる。

YMO時代にテクノポップやニュー・ウェイヴの分野で活動したことは広く知られているが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロックとテクノの融合、ワールドミュージック、ヒップホップやR&Bなどのブラックミュージックを織り交ぜたポップス、オペラの作曲およびプロデュース、クラシックやボサノヴァのユニットを結成してのワールドツアー、近年はアンビエントやエレクトロニカの作品を発表するなど、ジャンルを超越して多彩な作品を発表している。

「ビデオアート1984」坂本龍一

高橋 幸宏

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「ぴったしカンカン」高橋幸宏

高橋幸宏高橋 幸宏(1952年6月6日 - )は日本のミュージシャン。彼は十数枚のアルバムをリリースしており、ルーカスフィルム、NASA、アメリカ海軍、ヘイドン・プラネタリウム(ニューヨーク)、セビリア万博、CNN等の様々なプロジェクトに参加している。

シンガーソングライターであると同時に、ドラマー、作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサーとして活動している。またファッションデザイナー、文筆家としての顔も持つ。立教中学校(現・立教池袋中学校)・立教高等学校(現・立教新座高等学校)卒業。武蔵野美術大学中退。ソロデビューした1978年から1980年までは、「高橋ユキヒロ」とカタカナ表記の名前を名乗っていた。

高橋幸宏 YOU「青春プレーバック」

細野 晴臣

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「地球発22時」細野晴臣

細野晴臣細野 晴臣(1947年7月9日 - )は日本のミュージシャン。ベーシスト、シンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサーとして活動している。多摩美術大学美術学部芸術学科客員教授。2008年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

1947年、東京都港区生まれ。特に裕福ではないが、厳しい環境でもなく自由な少年時代を過ごした。母方の祖父がピアノ調律師、叔母が外資系の映画会社勤務という環境から、幼い頃からポピュラー音楽に親しんだ。中学時代にロックに興味を持ち、15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。漫画家を志したこともあるが、立教高等学校(現・立教新座高等学校)の同級生だった西岸良平の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する。高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める。この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。

恋は桃色 細野晴臣&矢野顕子

YMO Recording

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YMO - Recording

YMO RecordingYMOはシンセサイザーのサウンド、コンピュータ制御の電子楽器による自動演奏を大々的に音楽に取り入れた先駆者的グループである。それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいてコンピュータプログラムによる自動演奏を取り入れた点でも革新的だった。それまでのシンセサイザーは効果音製作や、既存の楽器の代用として使用されており、シンセサイザーや自動演奏でしか作れない曲を制作しようとした者はまだ少なかった。しかし、実際のレコーディングでは手弾きのパートと生のドラムの演奏が多かった。

YMO結成当時、コンピュータが刻むクリック音に合わせて演奏できるミュージシャンは数少ない時代だったが細野、坂本、高橋はクリックとの同期に違和感を持たない演奏家であったうえに、音楽・音色に対する探求心も強く、新たな技術を積極的に受け入れる傾向が強かった。そのためローランドから当時まだ試作段階であったにもかかわらず、ヴォコーダー「VP-330」を使ってほしいと依頼されたことがあった。

YMOのシンセサイザーと自動演奏は切っても切れない関係にあり、これらはプログラマーの松武秀樹の存在が大きい。レコーディングやライヴでの音楽データのシーケンサーへの打ち込み、自動演奏は松武が一手に引き受けていた。

Yellow Magic Orchestra in the studio

第4のYMO

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HIDEKI MATSUTAKE Moog Synthesizer Operation

松武秀樹松武 秀樹(1951年8月12日 - )は、神奈川県横浜市出身の作曲家、編曲家、シンセサイザープログラマー。株式会社ミュージックエアポート代表取締役社長。一般社団法人日本シンセサイザープログラマー協会代表理事。一般社団法人演奏家権利処理合同機構MPN副理事長。公益社団法人日本芸能実演家団体協議会常務理事(広報担当)。

1970年に大阪万博アメリカ館でウォルター・カーロスの「スイッチト・オン・バッハ」を聴き、シンセサイザーの自動演奏に興味を持つ。千代田電子技術専門学校卒業後の1971年6月、冨田勲のマネージメント会社であるインターパックに入社。音楽関係であった父親の伝手で、俗に「弟子入り」と言われている。同年10月モーグ・III-Pが冨田のもとに到着し、当時日本には数台しかなかったモーグシンセサイザーによる音楽制作のスタッフを経験する。

その後1972年にモーグ・III-Cを購入、1974年に音楽制作会社エム・エー・シー(MAC,Musical Advertising Corps.)を設立し独立。1977年、矢野顕子のアルバム「いろはにこんぺいとう」制作前後から、後のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーとの付き合いが始まる。1978年に坂本龍一のアルバム「千のナイフ」への参加をきっかけに、YMOの多くのアルバム・レコーディングや世界ツアーにマニピュレーターとして参加し、4人目のYMOと呼ばれた。1979~80年のYMOのツアーでは、ソニーのカセットデンスケをデータ・ストア(記憶装置)として利用し、シーケンサーのローランド MC-8を介して、モーグ・III-CとE-MU・カスタムモジュールシンセサイザーを交互に駆使し、ライブ中絶え間なく電子音を鳴らしていた。しかし、この当時の人の手によるアナログな準備作業では装置のトラブルにも悩まされ、ニューヨークのボトムラインでのライブでは、「デイ・トリッパー」の演奏時に電子音が出ず、ギターのリフを頼りに演奏を始めた。この演奏は、当時YMOの公演を追っていた日本国内のFMラジオでも放送された。

YMO、松武秀樹とシンセサイザー MOOG(タンス) 2003年

トリオ ザ テクノ

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YMO トリオ ザ テクノ

トリオ ザ テクノYMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演し、“元YMOの”と前置きしつつ、漫才を披露している。

※細野は“林家三平””大河内傳次郎”、坂本は“忌野清志郎”“矢沢永吉”、高橋は“小野田寛郎”“草刈正雄”などのものまねを披露し、ラストは坂本が高橋、高橋が細野、細野が坂本のものまねをして終えた。

YMO モジモジモジモジモジ君

Video Game Music

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細野晴臣 - Video Game Music (Disco ver.)

TV-TV細野晴臣 - Video Game Music (Disco ver.) は、1984年8月25日23:35~0:05 にNHK教育TVで放送されたTV-TV第一回目の放送に流れたサウンドです。このサウンドはビデオ・ゲームの電子音を素材にしたもので、独自のポップ感覚で処理された21世紀のディスコ音楽です。リアルタイムで見ていた当時、これは!と思ってVHSビデオに録画しながら見ていました。何度聞いても飽きが来ないし、ホレボレとして見てしまいます。このバージョンの音源がXEVIOUSとして販売されています。

XEVIOUS

コンピューターおばあちゃん

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YMO - コンピューターおばあちゃん

コンピューターおばあちゃん「コンピューターおばあちゃん」は、明治生まれという高齢でありながら、かくしゃくとして博学、さらに英語にも堪能な自慢のおばあちゃんへの、孫の敬愛といたわりを歌い上げた楽曲。コンピューターという題材から、作曲当時流行していたテクノポップ的な曲調が特徴。NHK『みんなのうた』の人気曲で繰り返し再放送されている。CD・DVD化もされており、カバーも多い。作詞・作曲は伊藤良一。

1981年12月から歌:東京放送児童合唱団(酒井司優子)プロデュース・編曲・ドラム以外のすべての演奏:坂本龍一、ドラム:高橋幸宏のバージョンが『みんなのうた』にて放送された。現在ではこちらのほうが有名で、オリジナルバージョンではメロディーに乗せて歌われていた歌詞の一部が、この編曲以降、作文朗読調のモノローグとして歌われるようになる。

『みんなのうた』で放送されたものは、前述のとおり坂本龍一が編曲とプロデュース、全楽器の演奏に関わったためか、映像では、サビの部分のテクノデリックフォントで「I LOVE YOU…YMO…FF…FF…FF…FF…FF」という一文が流れる。この「FF」は、コンピューターの未使用メモリー部分をダンプした場合によく見られるもの。コンピューターのメモリーの全てのビットが1になっている場合、16進数ではFFである。

コンピューターおばあちゃん(みんなのうた)

春咲小紅

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春咲小紅 矢野顕子

春咲小紅「春咲小紅」は、矢野顕子の5枚目のシングル。1981年2月1日発売。発売元は徳間ジャパン。

カネボウ化粧品の春のキャンペーンのCMソングに起用され、オリコン週間シングルチャート最高位5位を記録した。ジャケットは奥村靫正の手による。「春咲小紅」は、コピーライターの糸井重里が作詞。編曲のymoymoはイエロー・マジック・オーケストラの別名義。5枚目のスタジオアルバム『ただいま。』(1981年5月1日発売)にも収録された。

「春咲小紅」(はるさきこべに)の歌詞が「春先、神戸に」(はるさきこうべに)と聞こえることから、最初に発表された年に開催された、神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)のキャンペーンソングとして企画されたとの俗説が広まったことがある。TBS系列のテレビ番組・ザ・ベストテンでもそのような話題が取り上げられた。ポートピア'81のキャンペーンソングはゴダイゴの「ポートピア」であり、本曲とポートピア'81とは、何ら関係はない。

カネボウ CM 1981年 「レディ80 ミニ口紅」 曲 矢野顕子 春咲小紅

ラーメンたべたい

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矢野顕子 ラーメンたべたい

ラーメンたべたい矢野 顕子(1955年2月13日 - )は、シンガーソングライター。アメリカ合衆国ニューヨーク州在住。

医師である父の開業にともない、3歳で青森に転居。中学まで青森市で過ごす。青森市浪打の青森明の星高等学校付属ピアノ教室でピアノを習い始める。鍵盤にカミソリを立てて演奏するという厳しいレッスンだったという。

既にこの頃から「その日起きた楽しかったこと」などを、即興のピアノと歌で表現していたほか、発表会では既定の曲を即興でアレンジすることもあったとされている。ザ・ゴールデン・カップスのファンになり、しばしば当時居住していた青森から、彼らがデビュー以来出演していた横浜市本牧のバー「ゴールデン・カップ」まで見物に行っていたという。

1971年 - 軽音楽部に憧れて単身上京し青山学院高等部に入学。 高校生の部活動では満足できなくなっていたため、15歳のとき、父親の知人である安部譲二と当時の妻であった遠藤瓔子が経営するジャズクラブ「青山ロブロイ」に初めて訪れ、のちに安部家に下宿しながら夜な夜なセッションを繰り広げた。これが業界人の間でたちまち噂になり、やがて高校を2年の夏休みに中退してプロの道を選ぶ。

ごはんができたよ 矢野顕子

BAKABON

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矢野顕子 - BAKABON

矢野顕子 - BAKABON矢野は幅広い音楽性と鋭い感性を持ち、独創的な唄い手・演奏家・作編曲家でもあるために、その音楽は奇矯な印象を与えることもあるが、老若男女問わず幅広い支持を集めている。また、自身も世代やジャンルにこだわらない幅広い趣向を見せ、音楽バンド、ユニコーンの「すばらしい日々」や、ELLEGARDENの「右手」をカバーしたり、The Smashing Pumpkinsのファンで自身のライブにて同バンドの曲をピアノで演奏するなどしている。ミュージシャン、山下達郎は矢野を、「歌詞に最も食べ物が良く出てくる作詞家である」と評した。

矢野顕子 - 電話線 (1976)

New Song

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New Song 矢野顕子 Akiko Yano

New Song 矢野顕子「YMO以降、彼らと同等の音楽的業績を上げた日本のバンドは存在しない」との立場を採る。その理由の一つとして、「YMOの3人がいずれも演奏家としても超一流である」ことを挙げている。演奏技術の高度さへのこだわりは非常に強く、さまざまなインタビューにおいて「日本の若い音楽家はもっと技術を磨くべきだ」という信条を披露している。

矢野はライブを非常に大切にする演奏家である。同じ曲を弾いても二度と同じ演奏はない、と言われるほど、即興性にあふれる演奏をする。ライブ形態も、大規模なコンサート・ホールで演奏するツアーを行う一方、観客の顔の見えるライブ・ハウスでの演奏や、地域の公民館などでの小規模な「出前コンサート」を継続的に行い、ライブを通じたファンとのコミュニケーションに努めている。ライブ・アルバムを多くリリースしており、それにのみ収録された楽曲が多数あるなど、ライブ・アルバムを単にライブの記録としてでなく、スタジオ・アルバムと同等のオリジナル・アルバムに位置づけている。

矢野顕子-夏が終る
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