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弘前城四の丸の露天商
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弘前城四の丸の三忠食堂


小麦粉の栽培量が少ない津軽地方だからこその食文化。身近な食材を使った製法には、気候風土が育んだ知恵と工夫が詰まっています。
家庭によって、微妙に作り方が違うとされている料理。三忠食堂の津軽そばにに欠かせない材料は、そば粉と大豆粉、そして出汁の材料となる焼き干しと昆布です。
そばがきを作り一晩寝かせて、ここにそば粉と大豆粉を混ぜあわせたものを製麺します。これを更に一晩寝かせたらお湯で茹でて、水洗いをして一食ずつにまとめたものを更に寝かせたらできあがり。力仕事で生地を作り、熟成の時間がそばの食感を作る。一つとして欠かせない仕事の積み重ねで津軽そばは作られます。
注文が入ったらそばを鍋でさっと温めなおす。茹で置きされたものなので時間はかかりません。ここに焼き干しと昆布を引いた出汁に醤油をくわえたおつゆと合わせて、きざみねぎ、海苔、そしてなるとを添えたらできあがりです。毎年さくらまつりの時期は、必ず行く店です。

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弘前城四の丸の演芸場
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津軽じょんから節発祥の地
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津軽おはら節
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津軽音頭 (秋田節)
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津軽じょんから新節

A.一般的には「新節」が多いです
ちなみに現在の3種の歌い方は昭和30年代に浅利みきさんが、東京の舞台で披露したときに歌い分けたのが基準になっています。
「旧節」は大正時代以前の歌い方で、現在では手踊りに用いられることが多い早間の歌い方です。
「中節」は昭和10年代に津軽民謡一座の歌い手により工夫がこらされた歌い方で、技巧的で現在ではあまり歌われません。
「新節」は昭和20年代以降に歌いだされたもので、「中節」があまりにむずかしくなりすぎたために、「旧節」にちかい歌い方にもどすようになっていったものです。
多くの本に書かれている3種の歌い方の年代は昭和19年に書かれた「日本民謡大観 東北編」によるもので、現在の節回しの区別とは、年代がずれていることを追記しておきます。
Yahoo!知恵袋より抜粋
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津軽よされ節

『津軽よされ節』は『津軽じょんから節』、『津軽小原節』と並び「津軽三ツ物」と呼ばれる津軽民謡の代表曲のひとつとされている。
かつて東北地方では凶作のため口減らしが行われたため、「人が世を去れ」や口減らしで「余った人は去れ」という意味だとする説も。また、三味線の音や泣く様子、雪が降るさまなどの、擬声語・擬態語として位置づけられることもあり、厳しい寒さが「世から去れ」と言っているように形容されているともいわれる。
また上記にあげた意味のうち複数を同時に表しているとする説もあり、飢饉などで苦しい時は「世去れ」、平時には「仕事はよして宴を楽しもう」という意味が込められているという見方もある。

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うぉーきんぐうぃっち1

最初は弘前市亀甲町にある石場屋酒店からロケが始まります。その近くにある弘前城北門がある亀甲門から弘前公園に入ります。
弘前公園でロケしたのは、弘前さくらまつりが終わった直後に撮られました。なのでブログで紹介する時期とも合っています。そこから歩いて城内を散策するので、うぉーきんぐうぃっちと名付けられたのだとか・・・

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うぉーきんぐうぃっち2

弘前城本丸から追手門、藤田記念庭園和館~洋館を巡ります。私も15年ほど前に全て巡り、藤田記念庭園和館に流れる滝も撮影していました。
藤田記念庭園洋館は喫茶店が併設されています。従来は記念館的要素があったのですが、ふらいんぐうぃっちのおかげで喫茶店を全面的に押し出しています。洋館も立派な建物なので、思わずマンガのように柏手を打ちたくなりますね(^^♪

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さーちんぐうぃっち1
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さーちんぐうぃっち2

今年も四月中旬から下旬にかけて弘前さくらまつりを撮影してきましたが、さーちんぐうぃっちのロケ現場から実家はそれほど離れていません。それも同じ中学校の学区です。
倉本家がある下湯口は、その周辺で悪戸と呼ばれています。悪戸の方が人口が多いし、地区には悪戸郵便局と農協と悪戸アイスがあります。今年も悪戸アイスでソフトクリームを頂きました。
春の運び屋さんが訪れた岩木山神社は、2003年頃に撮影しています。その頃は岩木山神社の御神水が流れている湧き水を洗ったペットボトルに汲んで煮炊きしていました。車を手放した今では叶わない行動です。

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アドバルーン

屋外のアドバルーン広告は夜間に於いても気球内照明やバナー照明などにより広告の掲示は可能であるが、強風(掲揚が中止される風速5m/s以上)による事故のおそれもあり、掲示中は昼夜を問わず常時監視員が配置される。
アドバルーンの係留気球には、浮揚ガスに近年まで安価であるが可燃性もある水素も使われることもあったが、引火爆発の恐れもあることから、火災防止の観点から不燃性のヘリウムに転換している。
アドバルーン広告は都道府県や市区町村が制定する屋外広告物条例の制限により、地域や施設により掲揚のできない禁止地域や広告の際の申請等が必要な場合がある。

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夜光アドバルーン

1936年の二・二六事件では反乱将兵の鎮圧のため、帝国陸軍はビラやラジオ放送とともに「勅命下る軍旗に手向かふな」と書かれたアドバルーンを使用した。1930年代末以降になると、気球(アドバルーン)は兵器としても使用可能なことから民間での利用には制限がつくようになり、やがてアドバルーン広告は禁止された。
戦後しばらくもGHQの命令により禁止されていたが、講和条約以降は解禁され、昭和30年代から40年代には大量に用いられ、第2次の隆盛期となった。
アドバルーン広告は広告幕の文字の大きさの制限から広告を見るのに適した距離や高さ(仰角)があり、日本の都市部では超高層ビルの林立により宣伝効果が失われ、またコストが高いため懸垂幕をはじめとする様々なビル壁面広告に多くが置き換わったため、ほとんど見ることがなくなった。また、広告宣伝手段の多様化・発達により、相対的にコストパフォーマンスが低下してきたことも指摘されている。
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須賀川絵のぼり
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須賀川絵のぼり


しかし東京オリンピックの後は、プリントされた絵のぼりが多く出回るようになり、お店をたたまざるをえない状況になってしまいました。残ったのは、吉野屋1件だけ。大野修司さんは、「正直、続けることが大変な時期もありました。でも、私の父はあきらめませんでした。本場・中国で絵を学び直したり、屋内でもかざれるかけじくタイプを生みだしたんです」と言います。
新しい絵のぼりの形を提案し続けた師匠であるお父さんの背中を見て、6代目を継ごうと決心した大野さん。「手とり足とり教えてもらったことはないんですよ。でも、少しでもまちがうと口うるさく怒られたものです」。絵を描きはじめたのは23才。仕上げまでを行えるようになったのは、それから20年以上後のことでした。

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いわき絵のぼり

現代ではその図柄に武者絵が多い事から、通称「武者のぼり」と呼ばれています。「武者(武家)のみに使用が許された幟」という意味ではありません。実際には武者絵以外にも古典的な画題が数多く存在し、「絵のぼり」「節句幟」と呼ぶ方がより正確と言えます。他に「五月幟」「小旗」「矢旗」など様々な呼び名があります。
全国的に手描きの幟業者が減り印刷ものが主流になっていくなか、福島県いわき市では平成になっても複数の職人が制作を続けています。江戸時代からの伝統を絶やさない為にと、“いわき市内で一定 の手法により制作された武者のぼり”を「いわき絵のぼり」とし、平成9年「福島県の伝統的工芸品」に指定されました。
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いわき絵のぼり
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シャボン玉石けん

洗濯用粉石鹸、化粧用固形石鹸、液体石鹸を製造・販売している。製造されている石鹸は、酸化防止剤、防腐剤、香料、着色剤などの添加物を一切使わず、特に牛脂は地元である九州のものにこだわって使用するなど、天然油脂を原料に使用した石ケン素地100%の『無添加石鹸』である。
「青いお空がほしいのね…」で始まるCMソングと赤ちゃんを模したキャラクターのシャボンちゃんでも有名だが、これらは当時の社長であった森田光德によるまだ無名だった同社をメジャーにするためのアイディアだった。当初は合成洗剤を中心に製造・販売していたが、社員やその家族の湿疹が乱発したという。このため、1970年代から無添加石鹸一筋の石鹸会社として、環境問題にも積極的に取り組んでいる。
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シャボン玉石けん製造工程
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