東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964年4月28日に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められる大きな背景となった。OECD加盟は原加盟国のトルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったマーシャル・プランに無関係の国としては初めてで、戦前は「五大国」の一国であった日本が敗戦を乗り越えて再び先進国として復活した証明の一つともなった。
東京オリンピック開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのテレビ購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。テレビ購入者が増えたため「テレビ番組」の視聴者も多くなった。その為、娯楽性の高い「バラエティ番組」が増えたといわれる。
開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず地下鉄やモノレール、ホテル、首都高速道路など様々なインフラストラクチャーの整備が行なわれ、都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した。これらは現在に至るまで改良を重ねながら利用されている。特に首都高速道路の建設は急ピッチで進められ、東京国際空港(羽田空港)から国立競技場までつながり、途中で銀座・東京駅(呉服橋)・皇居周縁・国会議事堂・霞ヶ関官庁街などの主要施設を経由するルートが大会前に完成したが、用地買収の期間を省くために日本橋川上空などが利用され、日本橋も首都高速道路の高架の下に隠れる事となり、東京都心部の親水空間は減少した。
東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をシンコム3号で日本からアメリカへ送信し、さらにアメリカが受信した映像をリレー1号でヨーロッパへ送信するという方式で行われた。スローモーションの放送技術で、試合直後に微妙な対戦結果をその場で確認でき、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。
日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。メディアでの昭和世相史に関する記事等で「東京オリンピックの時期にカラーテレビが普及した」という趣旨の記述が見られることがあるが、1966年(昭和41年)まではカラーテレビの普及率は1%未満であり、メキシコシティオリンピックが行なわれた1968年(昭和43年)の調査でも5.4%で、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったのは1973年(昭和48年)である。
当時アメリカ支配権下にあった沖縄では、当時の琉球政府の大田政作主席が「早期復帰が叶わないのなら、せめて本土と同じ時間にテレビが見たい」と関係各所に陳情。これによって電電公社のマイクロ回線が那覇まで延伸されることとなり、山岳回折を用いた見通し外通信によって建設が進められ、東京オリンピック直前の1964年9月1日に開通し沖縄でも同時に放送された。なお、沖縄からは出場した選手は1人もいない。NOCを作って沖縄として出場する案もあったが、島ぐるみ闘争の激化で「1地域としての五輪参加はアメリカによる沖縄の恒久支配を意味する」との意見もあり設立されなかった。結果的に沖縄住民の日本人意識を高め、1972年5月15日の領土返還へとつながっていった。