歴史上、戦場において倒した敵の首を切り落とす行為は古今東西を問わずに広く行われてきた。これは勝った者の武勲を示す証拠を得るための行為とされ、長く戦う者の誉れと考えられてきたからである。また単に首を落とすだけでなく、得た首そのものに関しても、首実検によって戦功を計る材料としたり、何らかの技法で腐らないようにしたのち家に飾ったり、時には呪術的な実験の材料とされるなど、様々な用途に使用された。
日本の武士社会において死罪を与えられた場合は切腹することとなるが、その際実際には腹に刀を当てたとほぼ同時に介錯されて首を落とされることが多い。戦勝の証にしろ、重罪人の見せしめにせよ、どちらも共通しているのは「さらされた人物は死んでいる」という絶対的な事実を突きつけることである。本能寺の変などでは織田信長の首印を得ることができなかったことが、明智光秀のその後の天下掌握の失敗の一因となったとも言われている。
前述した戦場の件も含めて、武士とは、このような生首と斬っても切れない側面を持つ文化を持っていたと言える。しかしそうした側面は武士以外の階層文化においても見られ、刑が執行された後に重罪人の生首を衆目にさらすさらし首という刑は、平安時代の以後、幅広く行われた。