◆弘前市とのつながり | |
◆江戸時代は津軽藩の飛び地 津軽藩二代藩主信牧(のぶひら)公は、側室の辰子(西軍〔石田三成の三女〕)をここ大舘村に住まわせました。辰子はこの地名から大舘御前とも呼ばれ、この地で信義公を産みました。信義公は寛永8年(1631)13歳で津軽藩の家督を相続し、三代藩主となりました。なお辰子の墓は、藩主信義公の生母として弘前市の貞昌寺にあります。 信義公が明暦元年(1655)死去すると、信政(のぶまさ)公が四代藩主となりますが、10歳という若さなので信義公の弟信英(のぶふさ)公が後見職に任命され、信英公は明暦2年(1656)上州の飛び地2千石と津軽黒石領、平内領併せて5千石の所領を分知され、黒石(青森県黒石市)に陣屋を置きました。 後に上州の飛び地は津軽黒石藩領として元禄11年(1698)まで統治されました。また、大舘区内にある八幡宮の社殿は天和2年(1682)津軽黒石二代藩主信敏(のぶとし)公が建立したと伝えられることから、当地と津軽藩との密接なつながりを物語る史跡が数多くあります。 ◆400年の時を超え交流を再会する これらの史実を講演会で聞いた弘前市青年会議所のメンバーが、昭和60年6月1日に尾島町を訪問。地元商工会青年部との交流が400年の時を超えて再開されました。 昭和61年のねぷた初出陣以来、2年後には弘前市の茂森新町から大型ねぷたを譲り受けるなど尾島町でもねぷたに対する意気込みが盛んになり、今では祭りが近づくと町内にはねぷた囃子の太鼓の音が聞こえるようになりました。 平成3年11月25日には弘前市と尾島町との友好都市締結の調印が行われ、まつりのみならず産業や文化、人の交流も活発に行われています。 出典:「群馬歴史散歩」第160号 ※現在、尾島町・新田町は太田市と合併、境町は伊勢崎市と合併しています。 管理者に無断での使用・複製・転載・流用禁止 |
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尾島ねぷたの由来
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