永享年間(1429年~1441年)になると聖寿寺館の南部守行が大光寺城を攻めて以後、南部氏の支配下となりました。南部氏は津軽郡代として南部信愛を大光寺城主としています。南部信愛の子・南部左衛門の亡きあとは、後見役であった滝本重行が城代となりました。
天正2年(1574年)8月13日、大浦城主・大浦為信(後の津軽藩主・為信)が4000の大軍で大光寺城を攻撃しています。この時、滝本重行は、舘田林からの通報を受けて700の精鋭にて、大浦氏の本陣へ突撃したため、不意を突かれた大浦為信は一度敗走しました。
しかし、天正4年(1576年)1月1日、今度は正月という不意を突かれ、奮戦むなしく滝本重行は小湊口から南部家へ逃れています。この時、滝本重行の妻が「今はとて立別るるもなれきにし真木の柱に我等わするな」と城内の柱に刻んで去ったと言う逸話が残っています。
天正10年(1582年)、津軽家に臣従していた乳井館主・乳井建清が大光寺城主となります。慶長12年(1607年)、津軽為信の死後、津軽建広は津軽家の後継者に津軽為信の孫・津軽熊千代を推しますが失敗すると言うお家騒動の際に、津軽建広らが大光寺城に立て篭もりましたが鎮圧されています。
慶長15年(1610年)、弘前城の築城のため大光寺城は破却されて、建材が運ばれました。
弘前城の亀甲門(北門)は、大光寺城の追手門を移築したもので、本丸御殿の欄間は弘前・専光院に使われたとされます。弘前市新町・誓願寺の鶴亀門も大光寺城のものを移築したと伝わっています。
誓願寺の鶴亀門→
大光寺城~滝本重行と津軽の中心にあり歴史に翻弄された城跡より一部抜粋
誓願寺の鶴亀門と亀甲門の写真は弊ブログ管理者が撮影
誓願寺の鶴亀門と亀甲門の写真は弊ブログ管理者が撮影