1989年8月7日に運行されたねぷたです。青森市新町で叔父の原田氏が撮影しました。
出世(鏡絵)
風雲児信長(鏡絵)
鹿内一生の本名は勝男で、大正14年1月30日、旧荒川村に農家の三男として生まれた。小学校の頃からねぶたを作る。最初は東京で就職したが事情により帰郷し、様々な職についたが肺結核を患う。この間絵の勉強をしている。
本格的なねぶた作りに手を染め出したのは戦後まもなくからであった。同郷の川村伯鳳に手伝ってねぶたを作ったのは1回だけだったが、一生は伯鳳を師匠としている。24歳のとき青森市漁協に勤務するが、ねぶた師としての道をめざして退職し、他の仕事で食いつなぎながらねぶたを作り続け、昭和40年に消防第三分団に組の「三国志呂布関羽奮闘の場」で田村麿賞の栄誉に輝いた。
ついで昭和44年から3年間田村麿賞を独占する。特に昭和45年の「項羽の馬投げ」(青森市役所)は今でも語り草だという。しかし、肺結核が再発し、ねぶた作りも思うにまかせなかった。
一生の業績のひとつは弟子の育成であった。「我生会」はそういう弟子の集まりである。自分のねぶたを次第に弟子たちに譲り、独り立ちさせていった。平成元年まで県庁ねぶたを作ったが、これが最期であった。平成2年に4代目ねぶた名人位を贈られ、翌平成3年に逝去。
東北電力ねぶた愛好会・ねぶた師 穐元 和生
運行賞・二十二年賞
県庁ねぶた実行委員会・ねぶた師 鹿内 一生
知事賞【第二位】・海上運行賞・二十八年賞
鹿内一生の本名は勝男で、大正14年1月30日、旧荒川村に農家の三男として生まれた。小学校の頃からねぶたを作る。最初は東京で就職したが事情により帰郷し、様々な職についたが肺結核を患う。この間絵の勉強をしている。
本格的なねぶた作りに手を染め出したのは戦後まもなくからであった。同郷の川村伯鳳に手伝ってねぶたを作ったのは1回だけだったが、一生は伯鳳を師匠としている。24歳のとき青森市漁協に勤務するが、ねぶた師としての道をめざして退職し、他の仕事で食いつなぎながらねぶたを作り続け、昭和40年に消防第三分団に組の「三国志呂布関羽奮闘の場」で田村麿賞の栄誉に輝いた。
ついで昭和44年から3年間田村麿賞を独占する。特に昭和45年の「項羽の馬投げ」(青森市役所)は今でも語り草だという。しかし、肺結核が再発し、ねぶた作りも思うにまかせなかった。
一生の業績のひとつは弟子の育成であった。「我生会」はそういう弟子の集まりである。自分のねぶたを次第に弟子たちに譲り、独り立ちさせていった。平成元年まで県庁ねぶたを作ったが、これが最期であった。平成2年に4代目ねぶた名人位を贈られ、翌平成3年に逝去。
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