新元号は「令和」(れいわ)に決まった。出典は「万葉集」で「非常に美しい、きれいな元号という最初の印象を持った」という山中伸弥・京大教授(有識者懇談会メンバー)のコメントと同じ感想を持った読者の方も少なくないはず。
一方、初めて「令」の文字を採用するなど、元号史を専門とする研究者を驚かせる新基軸も少なくない。久禮旦雄・京都産業大准教授と京都府教育庁の吉野健一・文化財保護課副主査に聞いた。
「正直かなり驚かされた」と、吉野健一氏は新元号が発表された瞬間を振り返る。まず「令」の文字が、これまで日本の元号に使用された「72字」の中になかった。昭和の「昭」、平成の「成」に続いて、元号の文字にニューフェースが加わった。さらに、中国の漢から清までの元号354に使われた148字の中にも入っていないという。「『令』には良い、素晴らしいという意味がある」と吉野氏。
専門の研究者が注目するのは、「令」が過去の改元論議で提案された、元号未採用案の中ですらも、ほとんど見られない点だ。1回の改元時に、学識者らから提案される元号案は、10を超えることも少なくない。その中から1つが選ばれ、あとは有力な元号候補として温存されてきた。江戸時代以降では、こうした未採用案の中から正式な元号に登用されるケースが約8割を占めるという。これまでに約500の元号候補が確認されているものの、「令を使ったケースは、幕末に論議された『令徳』だけだった」と久禮旦雄・京都産業大准教授は指摘する。
初登場は14代将軍・徳川家茂の「文久」(1861年)で、京都の朝廷は「文久、令徳、明治、建正、萬保、永明、大政」の候補を江戸幕府に送り、幕府からの返答で「文久」が内定した。2度目は尊皇攘夷の動きが全国に広がっていた「元治」改元(64年)。朝廷は令徳・元治を候補として示した上で、特に令徳が孝明天皇のお気持ちに沿う、と伝えた。3年前に比べ、政治情勢の変化を背景に、朝廷が幕府に対して強気に出ていることが読み取れる。
しかし幕府は「令徳は、徳川に命令すると読める」として徹底して嫌った。100年前ならば正面切って反論したただろうが、当時の幕府にそれだけの力はなかった。さまざななルートで朝廷への政治工作をはかり、結局「元治」に落ち着いた。久禮准教授は「朝廷と幕府が対立した過去のエピソードよりも、『令』の持つ意味や読みやすさ・書きやすさに重点を置いた形だ」としている。
「『和』の採用も驚きだった」と吉野氏。「和」は丸く収まる、といった意味だから、これまでに19回使われ(上で使うのは『和銅』のみ)、元号では「永」(29回)「元」(27回)「天」(27回)「治」(21回)「応」(20回)……に続いて6番目に多い漢字だ。中国でも「元」(46回)「永」(34回)「建」(26回)のベスト3に続いて「和」(21回)が多い。しかし吉野氏は「『昭和』で長期間使われていたので、平成の後にすぐ再登用されるとは思い浮かばなかった」としている。
近世で元号の字が重なるケースは、「元治」(1864年)と「明治」(68年)がある。ただ元治は1年1カ月で慶応へ再改元したから、印象は薄い。ただ久禮教授は「長く親しまれてきた『和』が戻ってきたというとらえ方もできる」としている。享和、明和、天和、元和……「『和』を後ろに持ってくると、落ち着きのある元号になる」と久禮氏。
第3のサプライズで、研究者らが一番驚いたのは、「万葉集から採用されたこと」(久禮氏)。日本の古典からの採用される場合は、日本書紀などが有力で、万葉集のような歌集からの引用は難しいとされていたからだ。
久禮氏は「『令和』に国家理念や政治スローガンを感じさせないのも斬新な試みのひとつだ」と指摘する。これまでの元号は国のあるべき姿を、漢字2文字で表象することが求められてきた。「『令和』には、自然との永遠の調和といった意味合いで、具体的な思想や事物は指していない。今後の元号の新しい流れとなるかもしれない」としている。