日本でのテクノポップ黎明期にあたる1970年代末 - 1980年代初頭にかけて、彼らは日本の音楽シーンにおいては異色の存在であり、マスコミからは「ピコピコ系」と呼ばれる事もあった。しかしYMOの逆輸入ブレイク以降、言葉としての「テクノポップ」も定着し、また彼らの活動も活発化していきP-MODEL、ヒカシューと共に「テクノ御三家」の一つに数えられることもあった。立花や佐久間が海外のバンドとの親交がある縁もあって、1stアルバム発売後程なくして米国ツアーが実現、B-52'sと共演を果たし大反響を得る。その後もラモーンズやトーキング・ヘッズなど一線級のアーティストと共演。
1979年にイギリスのラフ・トレード・レコードより「Copy / Robot 」をリリースした。アイランド・レコードとの契約に成功し、3rdアルバムは海外でも発売されることになる。また自由度の高いプログラミングが可能な当時最新鋭のリズムマシンTR-808の導入により、従来はリズムボックスに付きっきりであった島がキーボードへ、それに伴って佐久間がベース/ギターへのパートチェンジも可能となり演奏の幅を広げていく。しかし、国内・海外で精力的に活動を展開しまさに「これから」と思われていた1981年に突如解散。その理由には諸説あったが、佐久間が2013年のインタビューで元々期間限定での活動を予定していたことを明かした。