お祝いの歌の代表作として紹介されたのが、「君が代」です。「君」は君主をあらわすという人がいますが、それは間違いです。漢字の「君」は、「口」ヘンと「尹(イン)」を組み合わせた文字ですが、「尹(イン)は、「手」に「|」(つえ)を持っている姿です。これは「聖職者」をあらわします。「口」は、その聖職者が口を開けて、何かを説いている姿です。つまり「君」という字は、会意形成文字で、高貴な人をあらわす文字。読みは「クン」です。
「君主(クンシュ)」となると「高貴な人=君(きみ)の主人」なので、それだけ偉い人です。つまり「君」という字は、高貴な人であり、だからこそ、源氏物語は朝顔の君や、藤袴の君など、美しい女性たちに「君」の尊称をつけています。「君」が天皇をあらわすというのなら、源氏物語の女性たちは全員、天皇ということになってしまう。実は、古代日本語で「き」は男性、「み」は女性をあらわす言葉なのです。
日本神話に登場する最初の男女神は、イザナ「キ」、イザナ「ミ」であり、「おきな=翁」「おみな=嫗」という言葉もあります。イザナキ、イザナミ以前の神々は性別がなく、日本の神々で最初に性別を持った神として登場するのが、イザナキ、イザナミです。その最初の男女神は、イザナキ、つまり「いざなう男」、イザナミ「いざなう女」として登場します。「いざなう」は、漢字で書けば「誘う(いざなう、さそう)」です。
つまりイザナキ、イザナミの物語は、誘(さそ)いあう男女の物語でもあるわけです。
二人は天つ御柱で出会い、
キ「我、成り成りて、成り余るところあり」
ミ「我、成り成りて、成り足らざるところあり」
と声をかけあい、互いの余っているところと、足りないところを合体させて、子を産みます。
ここで大切なことが、男女が互いに「成り成りて」というところです。「成り」というのは、完全に、完璧に、という意味です。知性も肉体も、まさに完璧に成長し、成熟したのです。ところが、完璧に成長したら、互いに「余っているところ」と「足りないところ」があった。これは矛盾です。
そこで二人は互いの余っているところと、足りないところを合体させて「子」が生まれたのです。「きみ」とは、「完全に完璧に成長した男女の喜びであり、尊敬し敬愛する人の喜びであり、「きみが代」は、その「愛し尊敬する人の時代」という意味となります。その「愛し尊敬する人の代」が、「千代に八千代に」と続くのです。歌はさらに「さざれ石の巌となりて」と続きます。さざれ石は、小さな小石が結束して大きな岩石となっているという点です。ひとつひとつは小さな小石でも、大きな力でみんなで団結したら、それは大きな「巌」となる。つまりさざれ石は、「きみ=男女」の結束、そして生まれて来る子供達や新たに親戚となる者たちなど、そのすべての人々が、大きな力のもとで固く固く団結しあい、協力しあうことの象徴でもあります。そして最後に「君が代」は、「苔のむすまで」と締めています。
苔は、冷えきったり乾燥しているところには生えません。濡れていて、水はけの良いところに生育します。カビとは違うのです。つまり、濡れたものと、固いものがしっかりと結びついたところに苔は生えます。すなわち「苔」は、「きみ=男女」が、互いにしっかりと結びつき、一緒になって汗を流し、涙を流し、互いにしっかりと協力しあい、長い年月をかけて生育する。それは、男女のいつくしみと協力を意味します。