当時、シンセサイザーやコンピュータを駆使した音楽としては既にドイツのクラフトワークが有名であったが、それらの技術を用いた音楽はまだ珍しい時代であった。そんな中で現れたYMOの音楽は、日本において当時の若い世代を中心に熱狂的に受け入れられた。そのためYMO結成、そしてクラフトワークの「人間解体」発売、同じくシンセサイザーを多用したディーヴォの「頽廃的美学論」の発売された1978年を「テクノ元年」と呼ぶ者も存在する。
また英米・英語圏の音楽界に対しても少なからぬ音楽的影響力を残しており、例えば「U・T」(アルバム『BGM』収録)はトランス・テクノ、「RIOT IN LAGOS」(厳密には坂本のソロ『B-2 UNIT』の曲だが、1980年の第2回ワールド・ツアーのオープニングで演奏された)はヒップホップのそれぞれ始祖であると、後に英米で評されている。
YMOはそのファッションも特徴的であった。特に初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中華人民共和国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そしてすっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげ無し)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。