■ウォレアイ環礁の歴史
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第二次世界大戦中はメレヨン島と呼ばれ日本軍の基地となり、1944年(昭和19年)2月に海軍第四四警備隊(宮田喜信海軍大佐)と第二百十六設営隊が上陸して滑走路を建設し、4月12日に陸軍独立混成第五〇旅団(北村勝三陸軍少将)が合流。陸海軍合わせて6426名。上陸直後に米軍の激しい爆撃と艦砲射撃に晒され、折角作った飛行場も殆ど使われず食料を揚陸直後に喪失してしまい、以後の日本軍は終戦まで極度の飢餓に苦しんだ。
島全体が標高の殆どない珊瑚礁のため農耕には向かず(2m掘ると水が湧く)、火薬を用いた漁による成果も部隊全体に行き渡る量はなかったそうです。ラグーンから採れる小魚、ネズミ、ヤドカリ、トカゲ、ヤシガニは貴重な蛋白源でした。潜水艦による4度の補給はあったものの、深刻な飢餓が発生し、終戦までに全体の7割に当たる4493名の餓死病死者を出しました。自殺して戦病扱いになった兵もいます。米軍も本島を放置して、たまにB-24リベーレーター爆撃機の爆撃があるのみで、日本軍の高角砲は体力不足から1発を発射するのがやっとでした。
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結果的に、日本軍守備隊は飢餓により事実上全滅し、戦わずして玉砕した悲劇の島と言われています。終戦後、草鹿任一海軍中将を団長とした第二次南方方面遺骨収集派遣団がメレヨン島を訪れました。島民は水深8mに沈んだ二式大艇を特攻機と説明していますが、これは3月12日に水没処理された機体であり、搭乗員は潜水艦で帰還しています。1966年(昭和41年)4月、全国メレヨン会員によって慰霊碑が建設されました。
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