追手門周辺は、2014年4月26日夜に撮影しました。
弘前公園の正面玄関が追手門です。藩政時代にも、初期を除いてこの門が正門とされていました。元々は北門である亀甲門が正門でしたが、参勤交代の際に追手門から南へ抜ける碇ケ関街道が整備されたことから追手門が弘前城の正門となりました。
園内に現存する他の4つの門同様、追手門も二層の櫓門となっています。全体的に簡素な素木造りとなっていて、戦国時代の古い形式を残すものとして全国の城郭建築の中でも珍しいものとされています。
追手門の呼び方は オオテモン と言います。皇居正門である大手門と同じ意味です。なぜ字面が違っているのかは分かっていません。
<看板内容>
史跡 津軽氏城跡 弘前城
史跡指定 昭和27年3月29日
弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1611)に二代藩主津軽信枚によって築かれた城である。
面積約492,000㎡(約149,000坪)を有し、三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。
現在城跡には、天守閣をはじめ隔櫓3棟、城門5棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。
弘前城には、築城当初10棟の城門があったとされているが、現在二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門(亀甲門)の5棟が残されている。
弘前城の城門は、周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた2層の櫓門であるが、門の全面に特別の門(高麗門)などを設けていないことや、1層目の屋根を特に高く配し、全体を簡素な素木造りとしていることなどから、全国の城門の中でも古形式の櫓門として注目されている。
櫓門である追手門には、出格子窓が備えられています。門の内側にある部屋からこの窓を通して、外部を監視していたものと思われます。
二階にも出格子窓が備えられています。その隣にある三角の穴は、銃眼です。門を攻め寄せて来る敵を、ここから狙い撃ちするために設置されていました。弘前城の史跡に残されている銃眼は、他の地域の城の銃眼よりも銃口の出る穴が小さくなっています。
追手門の場所 弘前城三の丸
建築年代 慶長16年(1611年)
2代藩主 津軽信牧の命により建築
指定年月日 昭和12年7月29日
棟高 11.7メートル
建築年代 慶長16年(1611年)
2代藩主 津軽信牧の命により建築
指定年月日 昭和12年7月29日
棟高 11.7メートル