このキャンペーンは車内や駅のポスター以外に様々なメディアでも宣伝された。駅スタンプは、それまで特定観光地にしか設置されていなかったが、このとき設置駅を1400に増やした。その他にも機関紙の発行、新聞での特集記事、テレビ番組の設定などがキャンペーンを盛り上げるために実行された。
主要30駅(上野駅や東京駅など)の駅前には、3年間の期間限定で「ディスカバー・ジャパン・タワー」が設置された。日立製作所のカラーテレビキドカラーの宣伝列車「日立ポンパ号」は、「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンと連動した。
キャンペーン開始と同時の1970年10月に、国鉄提供によるテレビ紀行番組『遠くへ行きたい』が始まった。これは永六輔が一人で日本全国を旅して、各土地の名所紹介や住民とのふれあいをテーマにした番組だった。永六輔が作詞した同名の主題曲とともに当時の国民の旅行への憧憬をさそった。
またキャンペーンの始まりと時を同じくして1970年3月に女性雑誌『an・an』、1971年5月に同『non-no』が創刊された。両誌は各地の小京都や倉敷・萩などのシックな町並み、中山道の静かな宿場(妻籠宿・馬籠宿など)をファッションモデルが訪れる形式で紹介して若い女性の個人旅行スタイル「アンノン族」を生み出した。各観光地には小グループの女性客が多く来訪するようになり、観光地は女性をターゲットとした街造りを意識するようになった。「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンは第1次オイルショックを経ながら、1976年12月まで続けられた。『an・an』のモデルでもあった秋川リサは後に、「気ままな旅のリサでございます」という全国の周遊券のテレビCMに登場した。