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名曲喫茶ひまわり外観
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名曲喫茶ひまわりレジ
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名曲喫茶ひまわり二階
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名曲喫茶ひまわりデザート
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名曲と珈琲ひまわり

1959(昭和34)年に開業した同店。店内には初代店主で創業者の三上登さんが集めたという絵画や陶器のコレクションが並ぶ。登さんの妻で二代目店主の三上千壽子さんによると、ステレオが家庭に普及する以前からレコードでクラシック音楽を流し、自家焙煎のコーヒーを提供していた。入店待ちの行列が土手町通りまで続いた時期もあった。
鍛冶町に支店を出したことや客席数が150席以上もあった。22時まで営業し、スタッフは2交代制。一日に3度も通うリピーターや店内でライブイベントを開くこともあった。音楽を楽しむためのヘッドフォンを設置したブースや店内で流すレコード曲は週替わりで、飲食メニューのほかに音楽プログラムも用意していた。
店内の雰囲気はなるべく創業当時のまま残すことを心掛け、2009年には弘前市が選ぶ「趣のある建物」に指定された。入り口は千壽子さんのアイデアで現在の場所になった。「レジカウンターに近い場所に入り口がありショーケースを設置していた」と千壽子さん。メニューのアイデアは千壽子さんが提案することが多く、夫の登さんが試作を重ねてメニュー化した。「とうふチーズケーキ」(350円)は現在も人気を集めている。
営業60年間で、店内で流す曲はレコードからCDに変わり、コーヒーは60円から430円に値上げした。昨年から全面禁煙し、営業時間は18時30分までに短縮。「純喫茶」と呼ばれる店が全国で減少していく中、2007年秋には登さんが他界。一時は閉店を考えこともあったという。千壽子さんは「息子が手伝うと東京から戻ってきたことや常連客の支えがあって続けてこられた」と話す。

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名曲&珈琲ひまわり


「昔から喫茶店は待ち合わせをするための場所でもあったから一言でわかりやすく、≪ひまわり≫なの。それと、ひまわりは誰にでも愛されるでしょ?」と、三上千壽子さんは満面の笑みで答えてくれた。
ひまわりというお店の特徴は、若い学生さん達がパフェを食べながらおしゃべりしていたり、サラリーマンがランチを食べていたり、おじいちゃんが本を片手にコーヒーを飲んでいるという、老若男女を問わず、みんながくつろげるアットホームな雰囲気。
そんなひまわりの特徴を表す、エピソードを三上さんからお聞きした。たまたま待ち合わせをした喫茶店ひまわりでプロポーズをされ結婚した女性がいた。
その女性は心労の思いで東京から帰京しひまわりに訪れ三上さんを訪ねた時「まだ変わらないままあったんだ。嬉しい。」と言い泣いていたそうだ。その女性は今もひまわりに通い子供さん達も常連で三世帯にわたってひまわりに通い続けている。
周りのお店が消え去り、新しいお店ができ、時代と共に街並みも変わっていく。そして私達自身も変わっていく中で、ふと、小さい頃や学生時代に食べた味を懐かしく思い出してしまう事が誰しも一度はあるのではないだろうか。
そんな味が恋しくなった時、昔と変わらぬままのものが食べられるということは、ほっとできる幸せな瞬間なのだと思う。

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「自虐」横断幕を設置


本州最北端にあり青森県内では唯一のサービスエリア(SA)。上り線はコンビニエンスストアを設置し、下り線は4月17日にリニューアルし、フードコートやショッピングコーナーなどの商業施設のほか、東日本では初という地域情報発信コーナー「つながる」を新設した。
ネクスコ東日本青森管理事務所の郷古章さんによると、リニューアルに合わせて新しい集客方法を考えていたという。「『早めの休憩』といった当たり前の標語より、ストレートに目を引く横断幕を意識した」と郷古さん。設置したのは碇ヶ関ICから津軽SAまでの下り区間で、「今日も空いてる津軽SA」「混雑知らずの津軽SA」「津軽SA独り占め」「貸切気分の津軽SA」の4つ。
2019年6月20日に設置したところ、ツイッター上では「自虐してた」「どうしちゃったの」といった反応があった。「利用者の反応が早速あり、うれしい」と郷古さん。「一般道からもお越しいただけるので、岩木山が望めるロケーションや津軽の情報を集められる『つながる』を地元の方々にもっと活用していただければ」とも。

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津軽SA独り占め

2018年からはリニューアル工事を行い、12月21日には下り線のフードコートとショッピングコーナーを先行開業し翌年4月17日には東日本のSAで初の地域連携スペース「つながる」(津な軽)やウォークインゲート・バリアフリー化が完成。
2019年6月20日以降、下り線の碇ヶ関IC - 大鰐弘前IC間に、当SAのPRを目的とした自虐的な内容の横断幕が掲出された。内容は碇ヶ関IC側から順に「今日も空いてる津軽SA」「混雑知らずの津軽SA」「津軽SA独り占め」「貸切休憩気分津軽SA」の計4種類。途中の阿闍羅(あじゃら)PAの前後に2種類ずつ設置されている。

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津軽弁の交通安全標語 新作1

「こいんだば わんつかねでがら ひっぱりへ」
疲れていれば 少し寝てから (車を)運転しよう「(県外人には理解が)難しい」とネットで話題を集める津軽弁の交通安全標語看板の新作4枚が2019年5月26日、弘前市立城東小学校(弘前市大久保西田)に設置された。
津軽弁で書かれた交通安全標語看板の設置は、青森県交通安全協会・和徳支部交通安全協会が10年ほど前から始めた取り組み。代表作「うぬうぬど けんどわだれば ひがれるろ」は、「県外人には難しい」とメディアなどで紹介され話題となった。
同支部の原田利昭さんは「現在学区内に52枚の看板を設置し、津軽弁を使った標語は20枚ほど。毎年6年生に考えてもらう宿題で、集められた標語から4作品を選び、看板として製作している」と話す。
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津軽弁の交通安全標語 新作2
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津軽弁の交通安全標語 新作3
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津軽弁の交通安全標語 新作4
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吉幾三「TSUGARU」

猛暑の青森県で撮影されたというMVでは、ラスタカラーの衣装に身を包んだ吉さんが不思議と耳に残る津軽弁ラップを披露。丁寧に字幕が付けられていますが、解読不能の平仮名が並んでいるようにしか見えず、YouTubeの自動字幕を試してみても「おめだの横バドせラバーを等への力ばば去年だねぇ」など謎の言語を吐き出すばかりです。音声認識に津軽弁は早すぎたか。
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吉幾三「TSUGARU」翻訳

・・・ブログ管理者です。青森県弘前出身なので、全て意味が分かります。同じことを何度も言っているし、難解な方言には聞こえませんが・・・
かいつまんで言うと、親が成人した我が子の心配している唄と言ったほうが良さそうです。俺ら東京さ行ぐだと言って実家を出た子供を案じた親の気持ちが唄われている唄ですね。
吉さんがまだ若かった頃は、実家を出た子供の気持ちを”俺ら東京さ行ぐだ”と言う唄にしています。
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アイドル時代の吉幾三

1952年11月11日、青森県で民謡歌手・鎌田稲一を父親にもち9人兄弟の末っ子として生まれる。地元の中学校を卒業後、父親の反対を押し切って歌手になるために上京し米山正夫に師事する。
1973年3月1日にヤンマーディーゼルのコマーシャルソング「恋人は君ひとり」を山岡英二の芸名で発売し、歌手デビュー。アイドル歌手として売り出したが成功しなかった。

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俺はぜったい!プレスリー

アイドル歌手「山岡英二」としてスタートしたがまったく売れず、飲み屋を流しとして歌うなどして何とか生活している状況の中で生まれた曲。歌のコミカルさをレコード会社のスタッフから見出され、レコーディングを行った。
吉いわく、エルヴィス・プレスリーの楽曲は全く知らなかったが、この年にエルヴィスが亡くなったニュースを聞き、彼の名前を冠した歌を作ったという。また、「吉幾三」の名前については、「気が付いたらレコード会社の人に『吉幾三』と付けられていた」とこのこと。
歌の途中から入るリズム音は木魚であり、レコーディングスタッフが叩いている。
発売当時、プレスリーファンからクレームが来たけど「プレシリーだから!」って言ったそうです。
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ゆっくり走ろう青森県
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俺ら東京さ行ぐだ

吉は1977年(昭和52年)に最初のヒット曲「俺はぜったい!プレスリー」を発表した後、ヒット作に恵まれない低迷期が続く。アメリカのLPレコードでラップ音楽に触れ、そこから着想を得て作った。本楽曲を各レコード会社に売り込むも、全て断られてしまう。最終的に千昌夫が数百万円で吉から原版権を買い取り、この千の支援により1984年(昭和59年)11月25日に本楽曲がリリースされた。
本作は当時のオリコンでは演歌チャートではなく「フォーク、ニューミュージック」チャートでランクインしていた。ラップ音楽の特徴であるプロテストソングを盛り込んだところに特徴がある。この歌の歌詞が吉の出身地の言葉である津軽弁と勘違いされることも多いが、津軽弁とは全く異なる。津軽弁では「わ、東京サ行ぐでァ」。
吉幾三本人が後日語ったところによると、歌詞の「テレビもラジオも電話もガスも電気も無い」など自虐的な部分が、発売当初は出身地である青森県北津軽郡金木町から「うちはそんなに田舎じゃない」と猛抗議を受けたという。
また、日本中の小さな農村から「ふざけるな!!」「オラたちの村をバカにしてるのか!?」と凄い数のクレームが押し寄せてきたとも語っている。しかし、彼自身の幼少期は本当に歌詞の内容と近いものだったという。一方で、曲の全国的大ヒットを喜ぶ人も地元に多くいたという。
「レーザーディスクは何者だ?」と歌詞にあり、後日製造元のパイオニアから「レーザーディスクの宣伝になった」ということで、吉にレーザーディスクの再生装置と一部の映像ソフトが贈られた。
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吉幾三 津軽平野

吉幾三さんの魅力は東北人の魂で歌っていることです。吉さんが住まれている五所川原市と青森市の間が青森県でも特に毎年大雪が積もる場所です。これでもかこれでもかという感じで、車の運転する人も命がけです。そのような厳しい自然の中で生活している人の気持ちが吉さんの歌を聴いているとじわじわっと伝わってきます。
俺ら東京さ行ぐだと同じ人間が作詞作曲したとは、思えない位、郷土愛に満ち溢れています。それが吉幾三の素晴しさであり、魅力であります。
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吉幾三 雪國

1984年末から1985年にかけて『俺ら東京さ行ぐだ』がヒットしたことから、吉幾三には最初コミックソング歌手のイメージがあったが、本作のヒットにより演歌歌手として本格的に認められた。発売からほぼ1年後の1987年(昭和62年)2月、オリコン、『ザ・ベストテン』で第1位となり、オリコン通算300曲目の1位獲得作品になった。
元々は栃木県那須のホテルであった宴会の席で即興で作った歌だったという。最初は「好きよ あなた」という歌い出しが「だめよ そこは」という下ネタ満載の、とても放送できるような詞ではなかったが、その後レコード会社のディレクターからメロディーの良さを買われ、真面目な詞にして作り直すことを提案された。その時、吉はNHKの『新日本紀行』の中で雪煙をあげて走る奥羽本線の列車の姿を観て、「女の人が男の人を追う詞にしよう」と、今の詞を思いついたという。イントロの印象的なストリングスは、当初エンディングに入れる予定だった。
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