Quantcast
Channel: スチャラカでスーダラな日々
Viewing all 7530 articles
Browse latest View live

アパッチ❤恋のブロックサイン

$
0
0
アパッチ❤恋のブロックサイン

❤アパッチ❤アパッチは、映画「野球狂の詩」で、恋のブロックサインを歌ってたグループ。1977年に木之内みどり主演で日活で実写映画化。

人気の上昇による週刊連載への移行に合わせて生まれた新しい主人公が、史上初の女性投手水原勇気である。いわゆる『勇気シリーズ』はいかにして女性投手が誕生し、プロ野球の選手として通用するにはどうするのかが物語の中心となる。その答えがドリームボールという「魔球」であり、「魔球」野球漫画へと回帰している。万年2軍暮らしの武藤は、夢の中で水原が特殊な変化球で空振りを取るのを見て、水原に新魔球の開発を課す。しかし間もなく広島カープにトレードされた武藤は後に、ドリームボールを打つことに選手生命をかけるようになる。

アパッチ❤恋のブロックサイン
アパッチ❤恋のブロックサイン

アパッチ レモンのキッス

$
0
0

アパッチ レモンのキッス

❤アパッチ❤「レモンのキッス」は、ナンシー・シナトラが1962年に発表した楽曲。原題は「Like I Do」。作詞・作曲はディック・マニング (Dick Manning) 。本国(アメリカ合衆国)では「逢ったとたんに一目ぼれ」(テディ・ベアーズのカバー。原題:To Know Him Is To Love Him)のB面曲として発売されたが、日本ではA面とB面が入れ替えられ、「レモンのキッス」をA面曲として1962年9月にシングル発売された。アメリカではヒットしなかったが、日本やイタリアでヒットした。

ナンシーがこの曲を発表したのと同年の1962年に、イギリスでモーリン・エバンスによってカバーされヒットした。また同じく1962年に、日本でも日本語の訳詞でカヴァーバージョンが発売された。

日本語版は森山加代子、ザ・ピーナッツ(訳詞:みナみカズみ、編曲:宮川泰)、伊藤アイコ(訳詞:水島哲、編曲:寺岡真三)らの競作であったが、ザ・ピーナッツ版が最もヒットした。ザ・ピーナッツは他の歌手との競作となるとヒットしにくい傾向があった(初期のザ・ピーナッツは歌唱力が余り評価されていなかったのが最大の理由)が、この楽曲で初めて競作楽曲で他の歌手のレコードよりヒットした。

その他ベニ・シスターズ、アパッチ、ゴールデンハーフ、RaCCo組、佐藤奈々子、ピチカート・ファイヴ、東京パフォーマンスドール、JUNCAらによる日本語カバーが存在する。

アパッチ レモンのキッス

フィーバー・悪魔に口づけ

$
0
0
フィーバー・悪魔に口づけ

フィーバー・悪魔に口づけフィーバーは、渡井なおみ・岡広いづみ・北川まゆみからなる1979年音楽デビューの3人組女性アイドルグループ。名前の順番は年齢順。キャンディーズ解散後に後継者として6人の候補者から3人が選ばれ、「フィーバー」とグループ名が付けられた。

悪魔にくちづけ
作詞:森雪之丞 作曲:佐藤健 編曲:船山基紀

1978年4月 - 1979年3月の月曜 20:00 - 20:54にNET(現・テレビ朝日)で放送されていた みごろ!ゴロゴロ!大放送!!に出演していた3人組女性アイドルグループのフィーバーです。悪魔にくちづけはデビュー曲となりました。歌手活動も2~3年で終わってしまい、北川まゆみがWikipediaに掲載されている以外、渡井なおみ・岡広いづみについては消息不明です。

渡井なおみ
フィーバー・渡井なおみ

フィーバー・デジタラブ

$
0
0
フィーバー デジタラブ

フィーバー デジタラブフィーバーは、すでにモデルとして人気のあった「渡井なおみ」に、岡広いずみ、北川まゆみの3人で結成され、シングル曲は「悪魔に口づけ」「ユーアーセクシー」など、お姉さんキャラ&ほんのりお色気を感じさせる歌声と衣装で、TVの歌番組出演などで一定の人気を得ていたようです。

ただシングルの売上は散々なようで、解散するまでに5枚発表してますが、どれも泣かず飛ばす。個人的には、どの曲も編曲がしっかりしていて、カラフルな楽器演奏が散りばめられているので、聴くたびに新しい発見があるイメージを持っています。

フィーバーの「デジタラブ」は最終シングルにして、彼女たちの最高傑作でもあり、テクノ歌謡曲史上に燦然と輝く名曲であります。私も名前だけは聴いていたのですが、実際動画で見たら、ハマリました。テクノポップっぽいピコピコ感と、スカスカなリズム、当時としては最先端と思われるボコーダー使い、なんとも愛らしい感じに仕上がっています。

作曲はムーンライダーズの鈴木慶一さん。80年当時はYMOを発端とするテクノ・ポップがブームだったこともあり、いろんなアーティストが取り入れていたのですが、フィーバーもその流れに載ってみたというとこですね。

作詞は糸井重里さん。今ではほぼ日刊イトイ新聞やゲームのマザー、コピーライターとして著名な方です。デジタラブ、デジタルとラブの造語からイメージできると思いますが、歌詞の内容は、あんまりデジタルじゃない。ある女性の優柔不断な愛する気持ちが綴られています。

このシングルを最後に解散してしまうんですが、「デジタラブ」の他にリリースしたシングル曲は佳作が多く、今の時代の耳で聞くと、なんでこんなに売れてないのか不思議なくらいです。3人はとっても美人だし、今でも通用する顔出ちです。歌もうまいし、楽曲も良い、トレンドとの相性やプロモーション戦略が間違っていたのか。ググってもあんまり情報が出てこない、かなりレア度の高いアイドルユニットです。

フィーバー デジタラブ

みごろ!たべごろ!笑いごろ!!

$
0
0
みごろ!たべごろ!笑いごろ! 後期OP

みごろ!たべごろ!笑いごろ!!『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』は、1976年10月11日から1978年3月27日までNET系列局(一部の系列局を除く、NETは1977年4月に全国朝日放送(当時の通称:テレビ朝日)に社名変更)で放送されたバラエティ番組である。企画・制作は渡辺プロダクション。放送時間は毎週月曜 20:00 - 20:54 (JST) 。

当時人気絶頂だったアイドルグループキャンディーズをメインに、伊東四朗と小松政夫を絡めたコントメインのバラエティ番組として立ち上げられた。また、コントの箸休めとして、キャンディーズや加山雄三による非コントコーナーも設定された。

漫画家の石森章太郎(後の石ノ森章太郎)がこの番組のためにデザインしたキャラクターデンセンマンが、デンセン音頭を踊って人気を博した。その後、西田敏行と、海援隊(武田鉄矢・中牟田俊男・千葉和臣)をレギュラーに加えたりするという小変更を行っている。

そして1978年4月、メイン出演者だったキャンディーズが解散のため降板、さらに加山雄三も降板させ、代わりにミュージカル女優の木の実ナナを加え、タイトルを『みごろ!ゴロゴロ!大放送!!』に変更。武田鉄矢と西田敏行を前面に推しだし、放送局のオープニングからクロージングまでの流れをパロディ化した内容にリニューアルされた(他番組パロディが多いのはこのため。オープニングでは新聞の番組表に似せたタイムテーブルまで流れた)が、1979年3月をもって終了した。

キャンディーズ 見ごろのテーマソング.mpg

悪ガキ一家と鬼かあちゃん

$
0
0

キャンディーズ 19771212 みごろたべごろ笑いごろ 第59回  ひろいもの

キャンディーズ当時小学生だったのですが、よくテレビ朝日系列のみごろ!たべごろ!笑いごろ!を見ていました。

今日からその動画も皆さんに見ていただいて当時を偲んでみましょう。放送当時、青森県ではテレビ朝日系列がなかったので、青森放送が時差ネットで日本テレビ系列とのクロスネット局だったために通常放送より遅れて放送されました。

みごろ!たべごろ!笑いごろ!から生まれたキャラのデンセンマンもリアルタイムで見ていました。

キャンディーズ コント1

悪ガキ一家と鬼かあちゃんのコーナーが大好きでした。これは伊東四朗が母親、小松政夫とキャンディーズが息子(ラン・スー)と娘(ミキ)役の設定であるコント。小松は、母親やキャンディーズ扮する兄弟達からいじめられるが、母親と二人きりになると「実はお前が一番可愛い」と慰められる。しかし、キャンディーズ達が戻ると途端に態度が一変し、小松を再度しゃもじで頭を叩いたうえに、「この大バカ!」とどなる。締めは小松にピンスポットが当たり、「惨うございますぅー」と泣き崩れて終わる。

キャンディーズ解散が公表された後は、ミキ、スー、ランの順にオチとなるネタを出し、ランだけがこけて場を白けさせ、その空気に耐えかねたランが柱に寄りかかって泣き出すと、ミキとスーが駆け寄って「ラーン、私たちには時間が無いのよー」と元気づける。顔を上げたランが柱にかけられた小さなくす玉を割ると、中から「打倒竹下景子」という垂れ幕が下がるというパターンもあった(当時伊藤蘭は、解散後女優になることを表明しており、人気女優であった竹下景子の名を使ったものと思われる)。この際に蘭が述べた「私、のー(どう)したらいいの。」という件が当時流行語になった。

キャンディーズ コント2

デンセンマンだよ!電線音頭

$
0
0
デンセンマン番宣

デンセンマンデンセンマン(電線マン)は、1970年代半ばにNET(現・テレビ朝日)系列で放送されていたバラエティ番組「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」に登場したキャラクター。

ニューギニアの火力発電所から100万ボルトの送電線にのって日本にやって来た。全身白と黒の横縞模様で、表が黄色、裏地が赤いマント(雀が3羽留まっている)を身に着けている、側頭部には耳の代わりに2本の電柱を模した柱のようなものがあり、がいしとおぼしきパーツが左右に4個ずつ、計8個飛び出している。

番組内のコーナー「キャンディーズの作法教室」に、伊東四朗扮する「ベンジャミン伊東」と、小松政夫扮する「小松与太八左衛門」と共に乱入するというスタイルで現れ、電線音頭を踊って立ち去る。「乱入」の体裁をとってはいるが、作法教室は単なる前フリである。キャラクターデザインは仮面ライダーを手がけた石ノ森章太郎で、石ノ森の手がけた超神ビビューンを思わせるヒーロー然としたデザイン。デンセンマンと小松はベンジャミン率いる「電線軍団」の一員という設定だが、具体的にいかなる目的で結成されたのかは謎である。

 『デンセンマンの電線音頭』 作詞:田村隆/作曲:不詳/編曲:東海林修

電線音頭 ※小松政夫さんの口上は2:42くらいから!

小松政夫のしらけ鳥音頭

$
0
0
小松政夫さんのしらけ鳥は5:00から

小松政夫  しらけ鳥音頭みごろ!たべごろ!笑いごろ!「悪ガキ一家と鬼かあちゃん」コーナー内で母親(伊東四朗)と政太郎(小松政夫)が会話中に場が白けると政太郎が突然右手にしらけ鳥のパペットを持って「しらけ鳥音頭」を歌いだす。後に小松の歌にのせてしらけ鳥の着ぐるみが踊ったり、挙句の果てには巨大化したしらけ鳥が街を破壊しながら踊る「怪鳥!しらけ鳥」という特撮コーナーまで出来た。

本番組の放送と同時期に小松は『ドリフ大爆笑』(フジテレビ)でも「しらけ鳥音頭」を歌ったことがある。このときは「交通違反」にちなんだコントで、人の交通違反の処罰を押し付けられた小松が、その状況を嘆いて歌った。

フィンランド民謡 「しらけ鳥」  唄 : 小松 政夫

底抜け脱線ゲーム

$
0
0

底抜け脱線ゲーム 番宣 【金原二郎】 1960年代

底抜け脱線ゲーム集『底ぬけ脱線ゲーム』は、日本テレビ系列局で放送されていた日本テレビ製作のゲーム番組である。ロート製薬の一社提供。製作局の日本テレビでは1963年6月2日から1973年1月25日まで放送。

毎回著名なタレントや俳優が「底ぬけチーム」「脱線チーム」の2組に分かれ、身体を張って様々なゲームで対戦していた番組。司会を務めていたのは日本テレビアナウンサーの金原二郎で、金原は毎回番組の冒頭で「週に一度の脱線タイム、さぁ底ぬけにお楽しみいただきましょう。ロート製薬提供、底ぬけ脱線ゲーム!」とアナウンスした。また、金原は元来自動車の警報装置であった「パフパフ」を小道具にしていた。

それぞれのゲームには、当時の流行語やヒット曲の題名・歌詞をもじったユニークな名前が付けられていた(「背部の女」「強尻(ゴーケツ)」など。中間のゲームでは、ロート製薬の製品(「パンシロンG」、「Vロート」)のパッケージを小道具にしていた。それが終了した後、金原がロート製薬のインフォマーシャルを「パンシロンG」その他の看板が掲げられたスタジオで行っていた。

勝利チームには特に賞品は出なかったが、敗退したチームは「お約束の罰ゲーム」をやらなければならなかった。番組はそのゲームをやってオチを付けながらエンディングに入っていた。なお、番組は毎回罰ゲームを行うべく、最終的に同点になった時には観客の一部を利用しての「同点決勝」を行っていた。

底抜け脱線ゲーム
底抜け脱線ゲーム

ほんものは誰だ?!

$
0
0
ほんものは誰だ?!

ほんものは誰だ?!ほんものは誰だ!は、日本テレビ系列で1973年2月1日 - 1980年9月29日の木曜(1973年10月に「木曜スペシャル」が枠拡大に伴い月曜日に移行)の19:30 - 20:00に放送されていた、ロート製薬一社提供のクイズ&ゲーム番組。司会は文化放送OBの土居まさる。

毎回、ある特技を持った3人の一般視聴者もしくは著名人がスタジオに登場する。解答者は3人に対して様々な質問をし、それを推理の参考にして「ホンモノ」を1人選び出す。よって他の2人はニセモノ。(芸能人グループや、『太陽にほえろ!』など他の番組の出演者を4人以上登場させる企画が稀にあり、この場合は回答表示機が使えないので、手持ち式数字板を使っていた)。

当時小学生の頃にリアルタイムで視聴した番組の一つで、記憶に残っていました。月曜日に放送されていた記憶が濃かったです。青森県では、RAB青森放送で放送されていました。

TVジョッキー

$
0
0
TVジョッキー日曜大行進81

TVジョッキー『TVジョッキー』は、1971年1月10日から1982年12月26日まで日本テレビ系列局で日曜日に生放送された視聴者参加型のバラエティ番組。TV JOCKEY 日曜大行進・TVジョッキー日曜大行進とも表記する。オープニングの決めゼリフは「見て聴いて参加する日曜1時15分は、生放送・TV JOCKEY 日曜大行進…」である。

日本中の若者が憧れた白いギターとEDWINのジーンズが番組の目玉賞品であった。テーマ音楽はダリダの「傷ついた小鳥」。日本の民放のレギュラー番組として初めてステレオ放送(音声多重放送)を実施した番組でもある。出演者への賞品で一般に知られているのは「白い」ギターであるが、黄色や水色の物もあった。オープニング曲はボブ・ジェームス「ファランドール」を使用していた。

4代目アシスタントの相本久美子(着任当時の芸名は「近藤久美子」、1975.4 - 1982.3)時代によく見ていた番組です。当時実家にVIDEOが導入される前だったので断片的な記憶しか無かったのですが、この時代が一番視聴者も覚えていたのではないでしょうか?

懐かしのTVジョッキー オープニングタイトル

奇人変人

$
0
0
TVジョッキー珍人集合 馬面大会

TVジョッキーTVジョッキーと言えば、奇人変人と言われるくらい記憶に残っている。参加者が変わった特技を披露するコーナー。放送が昼食時であるにも関わらず、「ミミズをざるそば代わりに食べる」「頬に針を突き刺す」「マムシをバラしシマヘビの風呂に入浴する」「剣山の上に寝る」「牛乳とコーヒーを飲んで目からコーヒー牛乳を出す」「ゴキブリを飲み込む」などといった、グロテスクなネタも多かった。ヘビが苦手な土居と児島は、ヘビを使う場合にはスタジオの隅に逃げて司会を放棄、アシスタントが児島時代はゲストが、相本時代は相本が代わりに進行していた。ただし、次の出演者のネタが相本が苦手なものが登場したことがあり、あわてて2人が入れ替わるという回もあった。

また珍人集合と言うコーナーもよく覚えている。特定のテーマに対し、『我れこそ珍人』という自慢の視聴者が参加、如何にテーマに沿っているかを競うコーナー。「ダイコン足大会」「ペチャパイ大会」「馬面大会」「いい形のおへそ大会」「デカ尻大会」「毛もじゃ大会」「男子ボインちゃん大会」「女子ボインちゃん大会」「オカマ大会」など、テーマは様々。

TVジョッキーミニスカアシスタントギターとジーンズを持ってくるシーン

「珍人集合」で出場者を紹介する時は、その珍人をイメージするジングルを流した後、「ポーン!」というジングルと共に、ボードの一部が下降して出場者が映される演出となっている。
「ボインちゃん大会」(男女に限らず)…「ボヨーン!!」
「絶壁頭大会」…「ヒューン」(落下音)
「ペチャパイ大会」…「ペチャッペチャッ」
「馬面大会」…「ヒヒーン」(馬のいななき)
「出っ歯大会」…「バリッバリッ」(煎餅を食べる音)
「毛もじゃ大会」…「ザッザッ」(草の上を歩く音)
「男女大会」…「♪男~ならやってみな~」(水前寺清子の歌「男なら」のワンフレーズ)

相本久美子

$
0
0
相本久美子_サマーセイリング

近藤久美子相本 久美子(1958年5月27日 - )は日本の女優、タレント、アイドル。本名、倉内 久美子。旧姓、相本。血液型はB型。身長160cm。東京都港区出身。所属事務所はスペースプロ→芸映プロダクション、歌手活動当時のレコード会社はCBSソニー→東芝EMI。

1958年5月27日、東京都港区で警察官の父親の長女として誕生。中学3年在学中の1973年9月1日、牧葉ユミのサイン会場に於いて牧葉本人から直接スカウトされ、1974年9月21日、「近藤久美子」の芸名とシングル『小さな抵抗』で歌手デビュー。新座市立第二中学校、明治大学付属中野高校夜間部卒業。

1975年、雑誌の企画で西城秀樹と共演したことがきっかけで芸映プロに移籍する(相本によれば、取材終了後、西城が芸映に彼女の移籍を推薦した)。翌1976年に本名の相本に改名、以降、歌・ドラマ・司会・雑誌のグラビアと多方面で活躍し、マルチタレントの先駆け的な存在となった。

相本久美子 揺れながらハーバーライト 1981年

相本 久美子

$
0
0
1977-1982 相本久美子CM集

相本久美子相本久美子の代表的な仕事としては1976年から1981年まで務めた『TVジョッキー』の司会が挙げられる。メイン司会の土居まさるの補佐兼マスコット的なポジションだったが、(番組内の「奇人・変人コーナー」の参加者の去り際に相本が言う参加賞の「白いギターとジーンズをお持ち帰り下さい」は常套句であった)この番組は生放送だったこともあってハプニングが絶えず、頭の回転が速い彼女は時に、蛇が苦手だった土居(出てくると場を放棄して逃げていた)に代わって進行を取り仕切ったことも多々あった。また当時『TVジョッキー』の衣装にミニスカートを選ぶことが多く、均整の取れたスタイルと長い手足にミニの衣装や水着がよく映えたことから、この時期、数多くの雑誌のグラビアや表紙を飾ることになった。

歌手活動に関しては、彼女自身の歌唱は一定の水準を満たしていたが、事務所移籍後、積極的に取り組んだのが二十歳前後と、アイドル歌手としては年齢が高かった。またアイドル歌謡全体がニューミュージックの台頭で一時停滞し、その後いわゆる1980年デビュー組によって一気に世代交代した時期と活動期間が重なったこともあり、レコードセールス的には全く振るわず、各種賞番組に絡むことはなかった。

1979 エメロン スキンクリーム

エメロン

$
0
0
198X エメロンスキンクリーム

エメロン昭和40年の8月に、ライオンから香りを重視した「エメロンシャンプー」が発売されました。エメロンとは、女性に好まれる響きを求めたライオンが、宝石のエメラルドと社名のライオンを合わせた言葉で、しっとりとしたなめらかな洗い上がりも好評でした。ちなみにエメロンスキンクリームは販売が終了しています。

1978/80 エメロン スキンクリーム

ふりむき娘

$
0
0

エメロンクリームリンス 1970

エメロン1970年に『エメロンクリームリンス』を新発売。発売前には、船山喜久弥が素人女性に「これを知っていますか」と尋ねるテレビコマーシャルが、また発売後には、街角で船山が素人女性にインタビューして、応じた人の後ろ姿と髪の毛を見せるテレビコマーシャルが放映された。その後CMのロケ地は日本全国へと拡大していった(「日本縦断ふりむき娘」)。これらの制作は、電通の久本省二ディレクターによる。

なつかしのCM ライオン エメロン・クリームリンス

ふりむかないで

$
0
0

1983 エメロン シャンプー&リンス 再登場篇1

エメロン1970年 - 『エメロンクリームリンス』の「ラジオ全国キャンペーン」のCMソングとしてハニー・ナイツが歌う「ふりむかないで」(作詞は電通社員の池田友彦、作曲は小林亜星)が起用され、11月からは、テレビコマーシャルでも放映が開始される。「ふりむかないで」は、全国各地の地名を織り込んだ歌詞が制作され、最終的に歌詞数は72種に達した。CMソング「ふりむかないで」を起用したコマーシャルは、7年間にわたり放映され続けた。
1972年 - ハニー・ナイツの「ふりむかないで」がレコードで発売。60万枚を超える大ヒットになる。

1983 エメロン シャンプー&リンス 再登場篇2

エメロン石鹸

$
0
0
1970 エメロン石鹸

エメロン石鹸1965年 - ライオン油脂が石鹸事業に初参入、『エメロン』のブランドを立ち上げる。最初はシャンプー、石鹸のラインナップでスタート。

1966年 - お肌にやさしい豊かな泡立ちの「エメロン化粧 石鹸」を発売
1968年 - 『エメロンスプレーリンス』を新発売。
1969年 - 花王石鹸(現・花王)から『カオーフェザー』という競合商品のブランドを発売され、ライバル競争を立ち上げる。

ライオン エメロン石鹸CM 80年代

アグネス・ラム

$
0
0
アグネス・ラム エメロン CM 1975

アグネスラムアグネス・ラムは、1970年代後半に日本で活躍したハワイ州オアフ島出身の中国系アメリカ人モデル。渡辺プロダクション所属であった。

ちなみにアグネス・チャンも、同じ事務所(香港出身のチャンとラムの間には何の姻戚関係もない。当時はよく勘違いされていたが“アグネス”はファーストネーム)。このため、両者のファンは、2人まとめて「両アグネス」と称することもあった。

1974年5月のハワイ大会で当初ミスUSAハワイ代表に選ばれたものの、わずかに18歳未満だったためにタイトルを失う。同年に地元の高校を卒業、日本からのハワイロケ映像撮影関係者にスカウトされ、モデルとして活動を始めた。

1975年6月に初代クラリオンガールに選ばれ、同年のライオン製品「エメロンミンキー」というトリートメント剤(当時、リンスは定着していたが、トリートメントはまだ普及していなかった)のCM出演が評判となり、美少女顔に不釣合いなバスト、小麦色の肌はたちまち大人気となりつぶらな瞳、日焼けした肌、豊かな胸(巨乳という言葉は未だなかった)、愛くるしいルックスなどで一世を風靡し、当時の若者に「アグネス・ラムフィーバ」が起きた。

アグネス・ラム
アグネス・ラム

アグネスラム

$
0
0

♪雨上がりのダウンタウン agnes ram

アグネスラム1975年11月に来日し、渋谷の東急百貨店で開催された「写真展兼サイン会」には会場に入りきれないファンが、隣のビル屋上までに詰めかけている。アイドルといえば歌手活動がメインというのが常識だった時代に、グラビアを中心とした活動を行った。元祖グラビアアイドルと呼ばれる存在である。

1976年夏には近藤正臣と共演したトヨタ・スプリンターや資生堂など9本のCM出演をしている。同年に「平凡パンチ」、「週刊プレイボーイ」、「GORO」、「週刊少年マガジン」や、当時のアイドル雑誌「ガール・ガール・ガール」(集英社)、「クランクイン」(辰巳出版)などのカバー・グラビアページに多数登場した。他に「週刊読売」など一般週刊誌のカバー表紙にも登場した。

アグネス・ラム『さよならは言わない』

1976年9月にプロモーション映画『太陽の恋人 アグネス・ラム』(東映25分、三堀篤監督、高中正義音楽・主題歌「Sweet Agnes」)が公開された。同作品は、2003年3月に、54枚の写真カード等を付けて限定500個を謳いDVDとして発売された。高中のミュージック・ビデオ『Go-On』にも映像が登場している。

1977年にシングル『雨あがりのダウンタウン』をリリースし歌手デビューも果たす。同年以降何回か、NHK紅白歌合戦に応援ゲストとして出場。ハワイロケの『帰ってきた若大将』(加山雄三主演、1981年)にゲスト出演した。1980年代初頭にもハワイでの撮影で「英会話番組」などに出演したが、アグネスラムのフィーバは1975~79年辺りである。
Viewing all 7530 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>