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Channel: スチャラカでスーダラな日々
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桜田淳子5

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桜田淳子 カンコー CM 1976

桜田淳子1992年6月30日に世界基督教統一神霊協会(統一教会)の合同結婚式に参加することを記者会見で表明した。このとき統一教会に入信していた姉の影響で19歳頃から入信していたことを自ら明らかにし、その合同結婚式で会社役員と結ばれた。

この合同結婚式に桜田ら有名人が何人も参加したことによって、統一教会と脱会した元信者らを中心とする反統一教会側との間の訴訟問題がよりクローズアップされるようになった。テレビ放送のワイドショーで統一教会の信者であることや霊感商法に関与したとの疑いに関して、証拠もなしに激しい非難・糾弾報道をされたことが原因となり、次第に発言そのものを控えるようになっていった。桜田自身がこの件で告訴・逮捕・勾留・起訴・有罪判決や民事訴訟を起こされたことはない。自分の所属していた事務所サンミュージックの社長・相澤秀禎に壷を売りつけていたのではという疑惑報道がなされたことがあったが、これについては、社長自身が桜田の親族を通じて200万円の壺を買っており、後日「淳子の純粋な気持ちは分かっている。彼女のためと思って私が買った」と語っている。

桜田淳子 ねのね寿司

桜田淳子6

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桜田淳子 夏にご用心

桜田淳子婚姻後は、夫の地元の福井県敦賀市に移り住む。その後も桜田が信者の集会や教会関連のイベントで講演したりするたびに芸能マスコミが取り上げ、「統一教会の広告塔」だとして批判する図式が続いていたが、一方で直接関係のない話題であっても、統一教会絡みの話題に「桜田淳子らが参加した合同結婚式で有名な」と名前を引用した当時のスポーツ紙・週刊誌の記事、ワイドショーのタイトルも相当数あり、結婚後のある時期からは、自らがメディアに顔を出す形での取材は一切受けていない。

現時点で1993年の3月に公開された映画『お引越し』への最後の出演と1996年12月15日、都内で行われた統一教会クリスマスフェスティバルを最後の公の場に、それ以降は一切の芸能活動を休止、事実上の芸能界引退となっている。騒動の最中、スポンサーが特定の宗教のイメージを嫌ってCMの契約が全部なくなったことや、「まわりには迷惑をかけられない」との理由で当たり役だった『細雪』の舞台(四女役)の降板を自ら申し出たことなどから、結婚後は仕事を干されたかのように報じられているが、3人の子供を出産後、子育てに専念していた間にも映画出演などの具体的なオファーはいくつか来ており、関係者や本人の弁によれば「子育てに忙しく身動きが取れない」という理由で全て断っていたとのことである。

桜田淳子 気まぐれヴィーナス・・・今までで一番好きな曲です

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コンビニで「BIG」系商品を1500円分以上購入すると、豪華賞品も当たります!

桜田淳子7

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桜田淳子 サンタモニカの風

桜田淳子2000年4月に夫が経営していた会社をたたみ、同年8月、夫の高齢の母の世話をするため、近所の兵庫県西宮市に移り住む。その間の2003年9月、『桜田淳子BOX~そよ風の天使~』が発売された際は、ブックレットに自筆メッセージを寄せている。2004年には東京都世田谷に転居。転居後も桜田が統一教会関連の集会で時折講演したり、歌を披露している姿が報じられたことなどから、一部のタブロイド紙では、夫は統一教会の幹部になったという無署名記事を掲載したこともあったが、2006年12月19日発売の『女性自身』での夫への直撃インタビューでは夫自身がこれを完全否定、現在は会社を整理した際に残った資産の運用で生計を立てていると答えた。

2006年11月24日には14年間の沈黙を破り、エッセイ集『アイスルジュンバン』(集英社)を上梓。子育てのこと、近所づきあい、学校の先生との触れ合いなどについてユーモアを交えながら綴っている。ただ、その良妻賢母ぶりに共感する声もあがる一方で、合同結婚式に参加し、マスコミから広告塔として騒がれたことについて一切触れていないとして、ワイドショーや週刊誌記事では軒並み批判的な論調が多かった。もっとも『婦人公論』(2007年1月22日付)のインタビューではこのことについても語っており、著書の中で触れなかったことに「隠したつもりはありません、ただ教会のことについて発言することでまた泥仕合になるのは避けたい、今の私は甘受したいと思います」と答えている。更に同インタビューでは仕事復帰をほのめかす発言もしており、エッセイの出版や東京への引越もその足がかりではと見たマスコミによる「桜田淳子 芸能界復帰へ」の憶測報道もなされた。

2007年、歌手時代に発表した全19枚のオリジナルアルバムがCDで復刻され、購入特典のメッセージ入りCD「声の手紙」(非売品)の中では、かつてのオリジナル作品3曲を間に挟む形で語り、およそ10数年ぶりに肉声を披露している。また2008年には、過去のライブアルバム9枚もCD化され、これに1979年にNHKで放送された『ビッグショー/桜田淳子 明日への序曲』のDVDを加えた『桜田淳子BOXスーパー・ライブ・コレクション』が発売されている。

MISS KISS

桜田淳子8

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桜田淳子さん

桜田淳子2007年、歌手時代に発表した全19枚のオリジナルアルバムがCDで復刻され、購入特典のメッセージ入りCD「声の手紙」(非売品)の中では、かつてのオリジナル作品3曲を間に挟む形で語り、およそ10数年ぶりに肉声を披露している。また2008年には、過去のライブアルバム9枚もCD化され、これに1979年にNHKで放送された『ビッグショー/桜田淳子 明日への序曲』のDVDを加えた『桜田淳子BOXスーパー・ライブ・コレクション』が発売されている。

2013年5月28日、サンミュージック代表取締役会長:相澤秀禎の通夜に参列し、16年半ぶりに公の場に現れた。 同年10月23日、デビュー40周年を記念し本人自薦のベストアルバムにTV映像集を加えた『Thanks 40 ~青い鳥たちへ』の発売が予定されており、本人インタビューやセルフライナーが収録される見通し。

復活!桜田淳子さん♥

桜田淳子CM

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山一證券 電力社債 桜田淳子 1974年

桜田淳子 ミニ・プッシュホンCM

桜田淳子CM集

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コメッコ

コメッコ芸能界から“引退状態”にある桜田淳子(55)が2013年11月26日、東京・銀座博品館劇場でデビュー40周年記念ファンイベントを開催した。ファンの前でステージに立つのは1993年3月の映画「お引越し」の舞台あいさつ以来、20年8カ月ぶり。一夜限りの復活だが、アイドル時代を思わせる笑みをふりまきファン380人を熱狂させた。

淳子がステージに帰ってきた。「おかえりなさい!」の大歓声と温かい拍手が響き渡る会場に、かつてのトップアイドルは現れた。オレンジのスカートにグレーのシャツを合わせたキュートな衣装。そしてアイドル時代を彷彿させる髪形。懐かしい容姿にファンは感激の涙で「淳子コール」を送り、桜田も瞳を潤ませた。歌唱後に「皆さま、お久しぶりです。桜田淳子でございます」とあいさつ。続けて5月に営まれたサンミュージックの代表取締役会長だった相澤秀禎さん(享年83)の通夜に参列したことを振り返った。16年半ぶりの公の場。会場の混乱に配慮し、参列を迷っていたという。だが、夫から「お世話になった人のお葬式に行かないなんて人間失格だ」の叱責で決意。会場を去る際、ファンからの「淳子ちゃん、待っているよ!」の声に笑って会釈した。ステージに立ち続けた濃密な2時間。ファンも、桜田も忘れられない一夜となった。

リンレイ 油料理あとしまつ 桜田淳子(1989年)

桜田淳子ハプニング

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桜田淳子 ミスティーハプニング

TVジョッキーは生放送がゆえにハプニングも発生した。桜田淳子の「ミスティー」を披露した際、音声トラブルが発生し、司会の土居などが桜田のところに駆け寄り、土居がスタッフに呼び出し謝罪した。その同じ回でも同様に別のゲストもトラブルがあった。

せっかく桜田淳子がハプニングにも関わらずアカペラで歌ってくれたのに、それを遮るのもなんだかな~と思う。
下の動画は、ハプニングが無かった同じ曲を同じ場所で披露している。

桜田淳子 MISTY ミスティー

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TVジョッキー

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TVジョッキーオープニングシーン

TVジョッキー『TVジョッキー』は、1971年1月10日から1982年12月26日まで日本テレビ系列局で日曜日に生放送された視聴者参加型のバラエティ番組。 愛称は『テレジョキ』。TV JOCKEY 日曜大行進・TVジョッキー日曜大行進とも表記する。オープニングの決めゼリフは「見て聴いて参加する日曜1時15分は、生放送・TV JOCKEY 日曜大行進…」である。

日本中の若者が憧れた白いギターとEDWINのジーンズが番組の目玉賞品であった。テーマ音楽はダリダの「傷ついた小鳥」。日本の民放のレギュラー番組として初めてステレオ放送(音声多重放送)を実施した番組でもある。出演者への賞品で一般に知られているのは「白い」ギターであるが、黄色や水色の物もあった。オープニング曲はボブ・ジェームス「ファランドール」を使用していた。

4代目アシスタントの相本久美子(着任当時の芸名は「近藤久美子」、1975.4 - 1982.3)時代によく見ていた番組です。当時実家にVIDEOが導入される前だったので断片的な記憶しか無かったのですが、この時代が一番視聴者も覚えていたのではないでしょうか?

TV JOCKEY
TV JOCKEY

奇人変人

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奇人変人

TVジョッキーTVジョッキーと言えば、奇人変人と言われるくらい記憶に残っている。参加者が変わった特技を披露するコーナー。放送が昼食時であるにも関わらず、「ミミズをざるそば代わりに食べる」「頬に針を突き刺す」「マムシをバラしシマヘビの風呂に入浴する」「剣山の上に寝る」「牛乳とコーヒーを飲んで目からコーヒー牛乳を出す」「ゴキブリを飲み込む」などといった、グロテスクなネタも多かった。ヘビが苦手な土居と児島は、ヘビを使う場合にはスタジオの隅に逃げて司会を放棄、アシスタントが児島時代はゲストが、相本時代は相本が代わりに進行していた。ただし、次の出演者のネタが相本が苦手なものが登場したことがあり、あわてて2人が入れ替わるという回もあった。

また珍人集合と言うコーナーもよく覚えている。特定のテーマに対し、『我れこそ珍人』という自慢の視聴者が参加、如何にテーマに沿っているかを競うコーナー。「ダイコン足大会」「ペチャパイ大会」「馬面大会」「いい形のおへそ大会」「デカ尻大会」「毛もじゃ大会」「男子ボインちゃん大会」「女子ボインちゃん大会」「オカマ大会」など、テーマは様々。

珍人集合参加者募集

「珍人集合」で出場者を紹介する時は、その珍人をイメージするジングルを流した後、「ポーン!」というジングルと共に、ボードの一部が下降して出場者が映される演出となっている。
「ボインちゃん大会」(男女に限らず)…「ボヨーン!!」
「絶壁頭大会」…「ヒューン」(落下音)
「ペチャパイ大会」…「ペチャッペチャッ」
「馬面大会」…「ヒヒーン」(馬のいななき)
「出っ歯大会」…「バリッバリッ」(煎餅を食べる音)
「毛もじゃ大会」…「ザッザッ」(草の上を歩く音)
「男女大会」…「♪男~ならやってみな~」(水前寺清子の歌「男なら」のワンフレーズ)

相本久美子

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相本久美子  真夜中のヒロイン

近藤久美子相本 久美子(1958年5月27日 - )は日本の女優、タレント、アイドル。本名、倉内 久美子。旧姓、相本。血液型はB型。身長160cm。東京都港区出身。所属事務所はスペースプロ→芸映プロダクション、歌手活動当時のレコード会社はCBSソニー→東芝EMI。

1958年5月27日、東京都港区で警察官の父親の長女として誕生。中学3年在学中の1973年9月1日、牧葉ユミのサイン会場に於いて牧葉本人から直接スカウトされ、1974年9月21日、「近藤久美子」の芸名とシングル『小さな抵抗』で歌手デビュー。新座市立第二中学校、明治大学付属中野高校夜間部卒業。

1975年、雑誌の企画で西城秀樹と共演したことがきっかけで芸映プロに移籍する(相本によれば、取材終了後、西城が芸映に彼女の移籍を推薦した)。翌1976年に本名の相本に改名、以降、歌・ドラマ・司会・雑誌のグラビアと多方面で活躍し、マルチタレントの先駆け的な存在となった。

相本久美子 夏なのにI LOVE YOU

相本 久美子

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相本久美子 初期のエメロンCM 1977

相本久美子相本久美子の代表的な仕事としては1976年から1981年まで務めた『TVジョッキー』の司会が挙げられる。メイン司会の土居まさるの補佐兼マスコット的なポジションだったが、(番組内の「奇人・変人コーナー」の参加者の去り際に相本が言う参加賞の「白いギターとジーンズをお持ち帰り下さい」は常套句であった)この番組は生放送だったこともあってハプニングが絶えず、頭の回転が速い彼女は時に、蛇が苦手だった土居(出てくると場を放棄して逃げていた)に代わって進行を取り仕切ったことも多々あった。また当時『TVジョッキー』の衣装にミニスカートを選ぶことが多く、均整の取れたスタイルと長い手足にミニの衣装や水着がよく映えたことから、この時期、数多くの雑誌のグラビアや表紙を飾ることになった。

歌手活動に関しては、彼女自身の歌唱は一定の水準を満たしていたが、事務所移籍後、積極的に取り組んだのが二十歳前後と、アイドル歌手としてはやや年齢が高かった。またアイドル歌謡全体がニューミュージックの台頭で一時停滞し、その後いわゆる1980年デビュー組によって一気に世代交代した時期と活動期間が重なったこともあり、レコードセールス的には全く振るわず、各種賞番組に絡むことはなかった。

1979 エメロン スキンクリーム

エメロン

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1979 エメロン スキンクリーム

エメロン昭和40年の8月に、ライオンから香りを重視した「エメロンシャンプー」が発売されました。エメロンとは、女性に好まれる響きを求めたライオンが、宝石のエメラルドと社名のライオンを合わせた言葉で、しっとりとしたなめらかな洗い上がりも好評でした。ちなみにエメロンスキンクリームは販売が終了しています。

1978/80 エメロン スキンクリーム

ふりむき娘

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LION エメロン

エメロン1970年に『エメロンクリームリンス』を新発売。発売前には、船山喜久弥が素人女性に「これを知っていますか」と尋ねるテレビコマーシャルが、また発売後には、街角で船山が素人女性にインタビューして、応じた人の後ろ姿と髪の毛を見せるテレビコマーシャルが放映された。その後CMのロケ地は日本全国へと拡大していった(「日本縦断ふりむき娘」)。これらの制作は、電通の久本省二ディレクターによる。

なつかしのCM ライオン エメロン・クリームリンス

ふりむかないで

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エメロンクリームリンス 1970

エメロン1970年 - 『エメロンクリームリンス』の「ラジオ全国キャンペーン」のCMソングとしてハニー・ナイツが歌う「ふりむかないで」(作詞は電通社員の池田友彦、作曲は小林亜星)が起用され、11月からは、テレビコマーシャルでも放映が開始される。「ふりむかないで」は、全国各地の地名を織り込んだ歌詞が制作され、最終的に歌詞数は72種に達した。CMソング「ふりむかないで」を起用したコマーシャルは、7年間にわたり放映され続けた。
1972年 - ハニー・ナイツの「ふりむかないで」がレコードで発売。60万枚を超える大ヒットになる。

ハニーナイツ ふりむかないで

エメロン石鹸

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1970 エメロン石鹸

エメロン石鹸1965年 - ライオン油脂が石鹸事業に初参入、『エメロン』のブランドを立ち上げる。最初はシャンプー、石鹸のラインナップでスタート。

1966年 - お肌にやさしい豊かな泡立ちの「エメロン化粧 石鹸」を発売
1968年 - 『エメロンスプレーリンス』を新発売。
1969年 - 花王石鹸(現・花王)から『カオーフェザー』という競合商品のブランドを発売され、ライバル競争を立ち上げる。

ライオン エメロン石鹸CM 80年代

PR: 《 LACOSTE 公式通販 》

アグネス・ラム

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アグネス・ラム エメロン CM 1975

アグネスラムアグネス・ラムは、1970年代後半に日本で活躍したハワイ州オアフ島出身の中国系アメリカ人モデル。渡辺プロダクション所属であった。

ちなみにアグネス・チャンも、同じ事務所(香港出身のチャンとラムの間には何の姻戚関係もない。当時はよく勘違いされていたが“アグネス”はファーストネーム)。このため、両者のファンは、2人まとめて「両アグネス」と称することもあった。

1974年5月のハワイ大会で当初ミスUSAハワイ代表に選ばれたものの、わずかに18歳未満だったためにタイトルを失う。同年に地元の高校を卒業、日本からのハワイロケ映像撮影関係者にスカウトされ、モデルとして活動を始めた。

1975年6月に初代クラリオンガールに選ばれ、同年のライオン製品「エメロンミンキー」というトリートメント剤(当時、リンスは定着していたが、トリートメントはまだ普及していなかった)のCM出演が評判となり、美少女顔に不釣合いなバスト、小麦色の肌はたちまち大人気となりつぶらな瞳、日焼けした肌、豊かな胸(巨乳という言葉は未だなかった)、愛くるしいルックスなどで一世を風靡し、当時の若者に「アグネス・ラムフィーバ」が起きた。

アグネス・ラム
アグネス・ラム

アグネスラム

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♪雨あがりのダウン・タウン

アグネスラム1975年11月に来日し、渋谷の東急百貨店で開催された「写真展兼サイン会」には会場に入りきれないファンが、隣のビル屋上までに詰めかけている。アイドルといえば歌手活動がメインというのが常識だった時代に、グラビアを中心とした活動を行った。元祖グラビアアイドルと呼ばれる存在である。

1976年夏には近藤正臣と共演したトヨタ・スプリンターや資生堂など9本のCM出演をしている。同年に「平凡パンチ」、「週刊プレイボーイ」、「GORO」、「週刊少年マガジン」や、当時のアイドル雑誌「ガール・ガール・ガール」(集英社)、「クランクイン」(辰巳出版)などのカバー・グラビアページに多数登場した。他に「週刊読売」など一般週刊誌のカバー表紙にも登場した。

♪さよならは言わない

1976年9月にプロモーション映画『太陽の恋人 アグネス・ラム』(東映25分、三堀篤監督、高中正義音楽・主題歌「Sweet Agnes」)が公開された。同作品は、2003年3月に、54枚の写真カード等を付けて限定500個を謳いDVDとして発売された。高中のミュージック・ビデオ『Go-On』にも映像が登場している。

1977年にシングル『雨あがりのダウンタウン』をリリースし歌手デビューも果たす。同年以降何回か、NHK紅白歌合戦に応援ゲストとして出場。ハワイロケの『帰ってきた若大将』(加山雄三主演、1981年)にゲスト出演した。1980年代初頭にもハワイでの撮影で「英会話番組」などに出演したが、アグネスラムのフィーバは1975~79年辺りである。

Agnes Nalani Lum
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