当時のアメリカの国民的バラエティー番組『エド・サリヴァン・ショー』には、1956年9月と10月、1957年1月と短期間に3回出演した。
広い視聴者層を持つ国民的番組への出演を意識して、ジャケットを着用し出演した上に、当初保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。
そのようなやり取りがあったものの、司会者のエド・サリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことから、プレスリーへの批判は少なくなった上に、アメリカ全土へのプロモーションに大きく役立ったと言われている。
歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはプロデューサーのトム・パーカー(通称・パーカー大佐)がプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「Rino Brothers」を選んだ。
プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「Love Me Tender」に変更されて公開された。プレスリーは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。