来徳女学校(らいとじょがっこう)は、明治時代、青森県弘前市に設立されたメソジスト系のミッション・スクール。弘前学院の前身校である。
1886年、アメリカ人のカロライン・ライトの出資によって、本多庸一(後の日本メソジスト教会初代監督)が弘前教会内に建設した。校名は、出資者ライトの姓に因んで「来徳」となった。ライトは函館にも自らの出資で女学校を設立している(現・遺愛学院)。
後にライトは娘を失ったことを偲び、その遺愛を記念して、1887年に「来徳」の校名を弘前遺愛女学校に改めた。その頃、中田重治(後の日本ホーリネス教会初代監督)が小使としてしばらく働いていた。
1889年には弘前女学校(右上写真)として文部省より認可され、教会から独立した私学になる。1901年に元大工町から坂本町に校舎を移転した。