金田 正一(1933年8月1日 - )は、愛知県中島郡平和村(現在の稲沢市)出身の元プロ野球選手(投手)・監督、野球解説者・評論家、実業家、タレント。血液型はB型。日本プロ野球史上唯一の通算400勝を達成、298敗の最多敗戦記録を持つ。引退後は、ロッテオリオンズの監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。
愛称は「カネヤン」「カネさん」。少年時代のあだ名は、その長身から「電柱」、「割り箸」など。プロ入り後は「巨人キラー」や「天皇」などと言われることもあった。現役時代は主に国鉄スワローズで活躍し、日本球界唯一の400勝投手となった。引退後はロッテオリオンズの監督を務めた。現在は野球評論家、千葉ロッテマリーンズ取締役。2009年12月3日まで日本プロ野球名球会会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。2009年11月までは、経営する自身の個人事務所株式会社カネダ企画内に名球会事務局が置かれていた。
1933年、在日朝鮮人の子金慶弘(キム・ギョンホン、김경홍)として愛知県に生まれる。1959年、日本に帰化。名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、機械いじりが好きだったことから名古屋電気学校(現・愛工大名電高校)に入学したが、1年の途中で野球の強豪校・享栄商業高校(現・享栄高校)に転校した。野球部長で監督の芝茂夫とここで出会った。金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している。コントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となり、1950年3月、2年生の時点で国鉄スワローズ監督西垣徳雄にスカウトされる。享栄商業のエースとして甲子園を目指したが、1950年夏の予選で敗退するとすぐに高校を中退、シーズン途中に国鉄スワローズ(現・東京ヤクルト)に入団した。
1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。登板の前日に下痢を発症して体調を崩した中での記録達成であった。しかも達成直前の9回一死で酒井敏明のハーフスイングの判定を巡って中日が猛抗議し、43分間の中断があったが金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共に全て空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。再開時にベンチを出る際、金田はチームメイトに「あと6球で終わりや、帰り支度しといてや」と豪語したという。
1958年4月5日の開幕戦(対巨人、後楽園球場)では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。しかし、結果4連続三振を奪ったものの、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と述べている。初対決で金田から4打席4三振を喫した長嶋は「カーブのキレがよく、特にドロップに手が出なかった。さすが金田さんだ。」と感想を残した。
次の対戦でも最初の打席で三振を奪い、長嶋のデビューから対戦5打席連続で三振に仕留めた。長嶋対金田の対戦は1964年までの7年間で打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打った打者となっている。翌年は王貞治が入団し、1959年4月11日の開幕戦で対戦、2打数2三振を奪っている。