本州・北海道を結ぶ動脈の役割を担った青函連絡船は、貨物が1971年(昭和46年)に855万3033トン、旅客が1973年(昭和48年)に利用者498万5695人を数え、それぞれピークを迎えたが、航空機とフェリーの利用の増加、国鉄の鉄道利用客の減少などの要因により、1974年(昭和49年)以後は利用が減少傾向に転じ、国鉄離れの加速で歯止めが効かずに末期には閑散としていた。末期でも、青森ねぶた、函館港まつりの行われる旧盆、弘前・函館の観桜と時期が一致するGW、年末年始などの最多客期には超満員となり、臨時便の運航や乗船名簿に便名、または出航時刻をスタンプで押印した乗船名簿を配布する措置がとられることがあったが通常期の利用状況は悪かった。
利用客数は最末期で年間に約200万人だった。しかし廃止が決定されてからの1年間は260万人に利用客が増えた。その多くが青函連絡船に別れを惜しんでやってきた者たちであり、それまで一度も連絡船に乗ったことのない者までが、お別れ乗船のために全国から訪れた。普段であれば冬季間は閑散としていたが、1988年(昭和63年)1月から3月の土日には臨時便を行うほどの活況を呈した。