1948年の逗子開成高校時代から、キャバレーでバンドマンのアルバイトをしていた。関東学院大学経済学部に進むが、高校時代の音楽仲間を追って中央大学経済学部に転学。音楽研究会に所属し、バンドを組んでキャバレーや米軍向けに演奏していた。一方で喜劇俳優にもなりたくて、劇団民藝や俳優座を訪ねたが相手にされなかった。在学中に米軍相手のコミカルな演奏が原信夫に注目され、シャープス&フラッツに参加。本格的な演奏の他に、トロンボーンのスライドを足で動かして吹くなどのコミカルな演奏も行う。「スイングジャーナル」誌上でトロンボーン奏者として上位にランキングされるようになる。
有楽町の日本劇場にトロンボーン奏者として出演していた時、舞台と舞台の間に大学の月謝を払おうとして現金持参で中大駿河台校舎まで飛んでいったが、月謝を納める学生達が行列しており、列に並んでは次の舞台に間に合わなかったため「カネを払うのに行列まですることはねえだろう」と思って日劇に戻り、そのまま除籍になった。