「火の用心」という言葉が使われ始めたのは、「鬼作左」の異名をとる徳川家康の重臣、本多作左衛門重次による手紙が、その由来とされています。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
その簡潔明瞭さから、手紙の模範として広く知られるこの一節。天正3年(1575年)に織田・徳川家と武田家による長篠の合戦の折に、設楽原(現在の愛知県新城市)の陣中から、浜松城内の妻に宛てた手紙とされ、現在判明する限り、日本で初めて「火の用心」という言葉が用いられたものとされています。慶安元年(1648)に出されたお触れには,次のように「火の用心」という言葉が含まれています。
「町中の者は交代で夜番すべし。月行事はときどき夜番を見回るべし。店子たちは各々火の用心を厳重にすべし」とあります。本多作左衛門重次が火の用心という言葉を使ったのは,一般に使われだしたこの時よりも大分前のことなので,彼が第一号の使用者ということになっています。
従って、何故、「火に用心」ではないかというのは、文法的な問題ではなく、このような由来の経緯があります。現実的に、「火の用心」ゆかりの地 浜松の防災教育展示コーナーを初め、消防本部では、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という言葉を掲げているところも多いようです。
Yahoo!知恵袋より抜粋